大塚初重先生への質問(2) 27.07.24 | 棟上寅七の古代史本批評

大塚初重先生への質問(2) 27.07.24

●4,5日前の天気予報にはアメマークはなかったのに、台風12号の影響で変ったのか、昨日の朝の天気予報は雨マークがついていて降水確率50%となっていました。


雨の中でのゴルフを覚悟して出かけたのですが、予報と違って午後からは日が射し蒸し暑さが厳しく、おまけにゴルフ場の経費節減で途中の茶店は営業していず、同伴者の水筒からの恵みを受ける始末となりました。


幸い雨上がりで足元も悪くボールも飛んでくれなかったのが幸いしてOBが出ず、16人中グロスで2位と、まあまあの成績で上がれました。もう少しアプローチショットの精度が上がればエイジシュートもまだ望めるようです。


今週末、台風12号が過ぎたら梅雨明けで一気に猛暑の夏が到来することでしょう。


●最近知ってヘ~と思ったのに「心ばかり」という熨斗の存在です。普通「寸志」という熨斗紙が貼られているのに「心ばかり」という熨斗紙が貼られていました。

最近デパートなどから物を贈ることがなくなったので、私だけが知らなかったことかもしれませんが。


●大塚先生の『魏志倭人伝をとらえ直す』にある、倭人伝の解説に目を通していますと、いろいろと自分の知識の不確かさに改めて気づかされています。


例えば、倭人は「木綿」で頭を覆っている、というところで、大塚先生は「木綿(ゆう)」と振り仮名をつけています。

陳寿が書いている「木綿」は果たして、日本の古語「木綿(ゆう)」と同じ意味なのかなあ、と気になって、それを調べるのに一日費やしたり、志賀島の金印には工芸文化研究所の鈴木勉理事長が金印偽造説の本を雄山閣から出版されている、と書かれていると、それが気になって、関連情報を調べてみたり、で結構時間が過ぎていきます。



●『邪馬台国をとらえなおす』について大塚先生へお尋ねしたいこと(2)


大塚先生は、「卑弥呼も邪馬台国も日本の史書には見えない」と次のように言われます。
【日本にあったと中国の史書に記されているのに、当の日本には邪馬台国の名も卑弥呼の名も、史料どころか伝承さえも存在せず、その確たる痕跡もない。どこにあったのかも確定していない、まぼろの国。それが邪馬台国である】(p24)と。

失礼とは思いますが、先生にお聞きしたいのは、”歴史書は勝者によって書かれる、という言葉を先生は聞かれたことありませんか、もしくはこのような疑問を持たれたことはありませんか?”ということです。

遠く離れた中国の史書には書かれているのに我が国の歴史書には見えないことの謎について、このような視点から思いをめぐらされたことはないのでしょうか。


卑弥呼や邪馬台国だけでなく、倭の五王達や、タリシヒコ一統もまったく日本の史書には見えません。弥生時代の代表的な青銅器「銅鐸」についての伝承も『記・紀』には残っていません。


これらの事から演繹されるのは、時の王者にとって都合の悪い敗者の記録は歴史書に載せる必要がなかった、ということでしょう。ナポレオンは、「歴史とは、合意の上に成り立つ作り話に他ならない」という言葉を残しているそうです。


歴史は常に勝者によって記されます。二つの文化が衝突したとき、勝った側が自らの大義を強調してそれを記録するわけで、邪馬台国が幻の存在になったのもそのせいだろうと思われたことはなかったのでしょうか?。


唐書には日本列島には倭国と日本国があったと書かれています。このことも我が国の史書に書かれていません。我が国に複数の王朝が同時に存在した、ということを理解出来ないほど、万世一系の一つの王朝が日本列島を古来支配してきた、という『日本書紀』のイデオロギーに染まってしまっているということを、ご本人は自覚されていらっしゃらないように見受けられます。


具体的に検討していったら、また違った大塚先生が見えてくることを期待して先に進みましょう。(以下次回)