「日中歴史共同研究」(10) 27.02.19 | 棟上寅七の古代史本批評

「日中歴史共同研究」(10) 27.02.19

●日曜日、天気予報に反してかなりの好天気でした。昔の会社の仲間4組のコンペでした。

今回は出だしからバーディはずしのパー、以後3ホールもパーで上がれ、5ホール傾斜のあるグリーンの上にボールが着いてボギーとなりました。まあこの調子が続けばエイジシュート・・などと思ったわけでもないのですが9番でトリプルで結局普段よりはましなスコアで、2位賞はいただけましたが、やはり後半に大叩きをしてしまいます。

基礎体力の問題なのか、暖かい季節になればましになるのか、ビールを飲みながら考えても答えは見つかりません。まあ、この寒い季節にゴルフを楽しめるだけまし、ということでしょう。


●昨日は家内の友達を博多駅に迎えて運転手役の一日でした。知り合いのアマチュア画家の展覧会を観に行くのが主目的でした。お昼を何処で、ということで、昨秋、大阪のお医者さんを案内して喜んでいただいた、ベイサイドプレイスの「リタの農園」というレストランに誘いました。


自然派ビュッフェを自称する、野菜料理主体のバイキングレストランですが、船着き場に入る船の出入りを眺めながらの食事でした。


内部も洒落ていて値段もシニア料金が1550円、時間制限などつまらぬルールがないのも良いところです。また隣接の市場も珍しい品が多く、大きくてギョッとするマグロの目玉などなんだかだと運転手が荷物運搬係も兼務させられました。「リタの農園」のURLを付けておきます。
http://litafarm.jp/other/company.html

「日中歴史共同研究」その10

2.「呉の泰伯の後裔説」


(寅七注:この泰伯の末裔説はうまくまとめてある。なお、魏略の太伯が自ら入れ墨をして土人を教化した、というのは古田先生の説くところと異なるが?)

●呉と越はともに江南にあったが、古くより戦争がやむことはなかった。紀元前473年、越王勾践は呉王夫差を打ち負かした。

『資治通鑑前編』に「呉は太伯から夫差に至るまで二十五世あった。今日本国はまた呉の太伯の後だというのは、つまり呉が亡んだ後に、その子孫支庶が海に入って倭となったのである」 とある記述が意味するところは、呉人が亡国の後四散して、一部が海を跨いで東進し日本にたどり着いたということである。

倭人が自ら呉の泰伯の後裔だと称するのは、最も早くは魚豢『魏略』の「倭人自ら太伯の後と謂う」という記述に見え、この説は唐宋時代に『翰苑』、『梁書』、『通典』、『北史』、『晋書』、『太平御覧』、『諸蕃伝』など様々な史書に採録されることとなり、かなり広く流伝していたことがわかる。


泰(太)伯は古公亶父(周太王)の長子であり、礼によって天下を三男末子の季歴に譲り、孔子から「至徳」(『論語』)と誉め称えられた。

泰伯と次男の仲雍は父のために薬を採るという口実で、遠く荊蛮の地に逃れ、髪を散らし、入れ墨をし、土人を教化し、義を慕い帰順するものはだんだんと増え、そして自ら国を建て「句呉」と号し、都を呉中(現在の蘇州市)に建てた。

春秋後期に句呉の国力は強勢となり、北上して晋国と中原をめぐって争った。


紀元前473年、越王勾践は臥薪嘗胆し、兵を興して呉の地に攻め入り、句吴は遂に夫差の代で亡ぶ。「呉の泰伯の後裔説」が形成された下限は、『魏略』が成立した3世紀の後期にあたり、その時日本は中国と「使訳通ずる所三十国」であり、その中で女王が統率する邪馬台国が最も強勢であった。
(寅七注:「30国の中でもっとも強勢だったのは邪馬台国」というが、『魏志』によれば、30国を統率していたのは邪馬壹国の俾彌呼であった筈です。著者は正史『魏志』を参照しないのはなぜ?)

●「呉の泰伯の後裔説」は日本民族の起原に関係すると同時に、大陸移民の東渡にもかかわるので、学会で注目を浴び、激烈な論戦が交わされた。

たとえば村尾次郎氏は中国人の「曲筆空想」だと指摘し、大森志朗氏はこれは「漢民族の中華思想の産物だ」とみなす。また千々和実氏は綿密な考証を経て、3世紀の倭人の部落が体内的には王権を強化するために、対外的には威望を挙げる需要のために、自分たち民族の始祖を賢人泰伯と結び付けたと指摘し、「倭人自称説」を肯定している。


『国語・呉語』の記載によると、越軍が呉の都に入り、王台を包囲し、勾践は使者を遣わし夫差に「私は甬句の東に王をうつし、夫婦三百、王とともに安住し、王の晩年を見届けさせる」と伝言していった。甬句は現在の寧波沿海の一帯にあり、夫差は「夫婦三百」を伴ったが、流されて「甬句の東」に到り、その中の一部の成員が海に出て日本に到達したという可能性も、ないわけではない。


『新撰姓氏録』(815年)を調べると、「松野連」条の下には「出自は呉王夫差である」と明記されている。ここからわかるのは、ある程度の人数の大陸移民が「呉王夫差」を始祖として奉り、彼らは日本で「松野連」と改姓したけれども、なお祖先を忘れてはいなかったということである。


『魏略』の載せる「自ら太白の後と謂う」倭人は、『資治通鑑前編』によれば「海に入って倭となった」呉人の支庶にあたる。この説はさまざまな中国史書に記録されているので、その来源はこまごまとした個人の伝聞などではなく、ある部落の始祖伝説によるものに違いない。


もし上述の推断が間違っていなければ、これは3世紀後期以前に、日本に東渡した呉人がある部落国家(或いは連盟)を建立し統治したことを意味する。この部落国家(或いは連盟)は親魏的な女王に背馳して、呉国の創始者泰伯を尊奉して始祖とし、邪馬台国の統治する30国に属さなかったと推察される。
(寅七注:三国時代に「親呉倭人国」が存在した可能性はあると思われる。だが、「倭国が呉人の流民による末裔」、というところまでは「日本語文法に与えた中国語の影響が皆無」であることからして言えないと思うのだけれど?著者が言う「中国移民」は男性主体であり、子孫はできても、結局は現地女性のマザータング恐るべし、という結果なのかな)

3.呉人・秦人・漢人
●4世紀の初め、中国では南北が対峙する情勢となり、北方では「五胡十六国」の混戦状態に陥ったが、南方は東晋の統治下にあり相対的に安穏であったため、戦乱が誘発した人口移動は主に北方に出現し、移民は主に朝鮮半島を経由して日本に侵入した。この時、日本列島も統一の足並みを加速させ、小国林立状態は結束に向かい、古墳時代が幕を開けた。
(以下この項の概略を述べる。日本の史籍『古語拾遺』に帰せられる秦漢の渡来人の記事や、『新撰氏姓録・左京諸蕃下』に記される呉人集団の和楽使主の記事など、呉人の移民の子孫と自称するものが20族あることなどを述べる。『日本書紀』に出てくる朝鮮からの渡来人弓月君も『新撰氏姓録』によれば彼は秦の始皇帝の五世の孫で大和朝廷で「秦造の祖」とされた。『日本書紀』にある「阿知使主は自ら漢の霊帝の後裔と称した、などと書く。著者注として自身の著書『呉越移民と古代日本』国際文化工房2001年、を挙げている。)
●(そして、まとめとして)日本の文献で、漢人をまた「綾人」、「漢織」、「穴織」などと称しているのは、彼らが絹の紡織に堪能であったことを物語っており、そのほかには、張声振『中日関係史』によれば、金属加工技術に精通したものや、漢の高祖の後裔と自称する「王仁」など、文人学士も少なくなかったようだ。
(寅七注:著者は日本の文献はよく調べているように思います。ただ基本的に各「正史」の評価がどうもはっきりしていないことが気になります。)


(次の項目 4.「三角縁神獣鏡」は、次回です)