「日中歴史共同研究」(2) 27.01.14 | 棟上寅七の古代史本批評

「日中歴史共同研究」(2) 27.01.14


●先日古代史の勉強会で小郡埋蔵文化財調査センター所長の片岡氏の「青銅器はなぜ埋められたのか」という話を聞きました。
発掘調査を実際に手がけられ、発見時の状態を数多く実験されている方ですので、なかなか説得力がありました。

埋納には再度掘り起こしされたが、ある時から掘り出されることのなかった忘却型埋納と、最初から掘り起こす意思がなかった祭祀型埋納に分けられる、という説明でした。

しかし、忘却型の「掘り起こすのはなぜ」というところは依然として合理的な説明をするのは難しいようです。


「なぜ埋められたのか」という問題とは別に、片岡所長は、渡来人居住遺跡と鋳型出土との関係を研究した結果、青銅器の製造は、有明海沿岸の方が玄界灘沿岸よりも早い、と次のように説明されます。

「玄界灘沿岸地域は朝鮮半島から直接青銅器を手に入れる事が出来るが、有明海沿岸部は難しく自分たちで製造せざるを得なかったのではないか」と。


つまり、鳥栖・佐賀地域の細形銅剣鋳型は弥生初期のものであり、玄界灘沿岸地域には弥生初期の鋳型の出土はない、という前提での話です。


古田先生の『ここに古代王朝ありき』を開いてみますと、北部九州での鋳型出土例は「樋口隆康編『古代史発掘』5からの引用がされています。そこでは、銅矛鋳型の出土は福岡市・春日市・糸島郡のみとなっています。しかし樋口先生の本は1974年の出版です。


最近の鋳型出土について調べてみましたら、東大考古学研究室の研究紀要で2002年に後藤直教授(当時)が「弥生時代の青銅器生産地―九州―」というタイトルで発表されていました。かなりの量がある論文ですが、なかなか詳しく調査されています。


ついついそちらの方に向いてしまいますが、やりかけの「日中歴史共同研究」の方をまずまとめなければ、と思っています。年のせいとは思いたくないのですが、二つの事を同時に行えるような脳のキャパシティが、寅七にはもうなくなっていると自覚させられています。


●「日中歴史共同研究」を読んで(2)

前回の続きです。総論に続き王小甫氏の七世紀の東アジア史が語られます。ここで取り上げる文章は、寅七が気に入ったところや気になった部分を取り上げて、寅七の感じたところをメモ書きしたものです。

第一部第一章 7世紀の東アジア国際秩序の創成  王小甫


第1節 早期の東アジア国際関係


●倭が地域政治に積極的に介入しようとする進取的態度の発展は次の3段階に分けられる。


1.倭人諸国から邪馬台国に至る時期。倭は主として地域社会に積極的に参入しようという願望を見せ、「漢委奴国王」、「親魏倭王」といった藩属関係とその名号に満足していた。


2.統一後の倭の五王の時期。倭王は引き続き中国王朝の冊封を受けることを求め、それによって自らの国内的権威や国際的地位を高めようとした。

3.遣隋使。国際的地位や文明程度の高まりに伴い、倭国はもはや冊封を求めず、中国との対等な関係を勝ち取ろうとした。
(寅七注:倭の五王が忠節を尽くしたのは「宋朝」であり、それを倒して成立した「隋朝」は「敵」であった、という見方をとることは中国にはできないのかな?)


●倭が国内で統一と発展をなしとげ、(好太王碑文に見られるように)同時に朝鮮半島で不断に勢力を拡大していった頃、中国は「五胡十六国」の混乱を経て、南北朝時代に入る。

413年、倭は中国との通交を再開した。420年、中国南方で劉裕が晋に代わって宋朝を建国し、439年には北魏が中国北方を統一する。

この期間に相継いで中国の南朝と友好関係を築いた倭国の讃、珍、済、興、武の五人の大王は、『日本書紀』所載の仁徳、反正、允恭、安康、雄略の五王であると多くの研究者がみなしている。(p4)
(寅七注:倭の五王が日本の正史『日本書紀』に全く出ていないことについて、中国側の意見はないのかな?)


●倭王が百済を都督しようとする要求を幾度提出しても許可されなかったとはいえ、朝鮮半島における勢力を包含する名号が中国の皇帝の認可を得たことは、東アジア諸国関係における倭国の地位を相当程度に引き上げ、倭王の国際的な声望を高めた。

第2節「白村江の戦い」と東アジア関係


●隋朝が中国を統一したにもかかわらず、倭王はさらに冊封を求めることも受けることもしなかった。そればかりでなく、国際的地位と文明程度の向上に伴って、対中関係の上でもますます主体意識を強め、中国と同等の地位を得ようとする態度を露わにしていった。


第二回遣隋使の国書「日出処天子・・・」(日が昇る場所の天子から日が没する場所の天子に書を差し出す)と記し、第三回遣隋使の国書では「東天皇敬白・・・」(東の天皇が西の皇帝におうかがいする)ときしたことにこうした態度が明らかに表れている。唐代初期に至るまで、中国に遣わされる倭の使者のこうした政治姿勢はまったく変化しなかった。
(寅七注:第三回遣隋使が持参したとされるこの国書は中国の史書になく、『日本書紀』にあるだけだが?)


●(倭国の「日出処天子・・・」の国書に)煬帝はこれを不快に思い鴻臚卿に「蛮夷の国の書に無礼なものがあれば、二度と知らせるな」と言った。

翌年文林郎裵世清を使者として派遣した。これは煬帝が倭王の国書を受け取っておらず、裵世清が倭に赴いたのも対等な国交の答礼使としてではなく、単に遠くから使者を派遣し朝貢にやってきた蛮夷の国に対して褒賞の意を表し勅諭を伝えるためだったに過ぎないと一般的に考えられている。
(寅七注:確かに裵世清は国書を帯同したとは隋書には見えない。『日本書紀』の、国書を裵世清が持ってきた、とか、小野妹子が国書を盗まれたなどの記事は、「『日本書紀』には誤りが多い」として片づけているようだ。「・・・・一般的に考えられている」というのは責任逃れのように思えるが?)


●(第一回遣唐使犬上君三田耜の翌年631年)使者が朝貢すると皇帝は使者が遠路やってくることを矜み、有司に詔して歳貢にこだわらなくてもよいとした。

新州刺史高仁表(旧唐書では高表仁)を派遣し諭そうとしたが倭王と争礼が生じたため、天子の命を宣べることなく帰朝した。研究によれば、「争礼」とは「天皇、御座を下り、北面して唐使の国書を受く」という礼儀上の争いであった可能性が高い。


(寅七注:各史書の記事の齟齬する部分の扱いは、後代に書かれた史書の方が正としているようだ。『魏志』の「邪馬壹国」→『後漢書』の「邪馬台国」、『隋書』の「俀国伝」→『北書』の「倭国伝」、『旧唐書』の「高表仁」→『新唐書』での「高仁表」、『旧唐書』の「倭国伝と日本伝」→『新唐書』の日本伝などなど。)


●第一回遣唐使630年犬上君三田耜、第二回遣唐使653年高向玄理・学問僧と留学生を含む、第三回遣唐使654年新羅を助けよとの高宗の国書(唐会要)、第四回遣唐使659年蝦夷人を同道した・・・・、
(寅七注:遣隋使・遣唐使で『日本書紀』と「中国の史書」との不一致について、その解釈が整理されていないようだ。『旧唐書』や『唐会要』の朝貢記事が『日本書紀』には記されていないし、653年の吉士長丹の遣使は『旧唐書』には記載ないのだが、これは『日本書紀』の記事のあやまりとはみなしていない。つまり、自説に都合よく、というか補完してくれる場合には採用し、そうでない場合には『日本書紀』の記事は信用できない、としているようにとれるのだが?)


●白江口の戦い以前に両国間には多年にわたる往来があったにもかかわらず、隋唐中国の国際的地位やその力について倭が正確な認識を持たず、あるべきはずの重要視もしていなかったことが分かる。

白江口の戦いは倭人の目の曇りを晴らし、倭人はそれによって唐朝中国の発達した政治文化と真剣に向き合い、学び、さらに自らの国家を建設し、自国の問題を適切に処理するようにまった。
(寅七注:両国間の問題として「隋の琉球侵攻」があるが、著者は全く触れないのは、琉球は日本と関係ない、という前提があるからとかな?

また、百済と倭国の両王家間は姻戚関係にあったことが、倭国の行動への影響について言及があってもよいと思うのだが。)

以上で第二節が終わりです。次回は第三節新羅統一の影響です。