白川静氏と藤堂明保氏の確執などについて 25.09.23 | 棟上寅七の古代史本批評

白川静氏と藤堂明保氏の確執などについて 25.09.23

●張莉さんとお会いしたことを前回のブログに書きました。思い出したのは、このブログの読者KH氏から、白川静先生と藤堂明保先生との確執について貴重な意見を聴かせて頂き、このブログに紹介してよろしいか、との当方の頼みも快くご了承いただいたのに、そのままになっていたことです。


KH氏のメールの文章を少しは整理して紹介しようと思っていたのですが、手を加えることにより却っておかしなものいなりかねない、と思い長文ですが、そのまま紹介させていただくことにします。


●KH氏より寅七宛のメールより転載


 貴ブログで啓発された点等を以下に述べさせていただきます。

 張 莉 女史の論文、『「倭」{倭人」について』 張氏が「あとがき」に記されている通り、「日中関係の中国の古文献を解釈し、その論理の赴くままの結課」ですが、そこには白川漢字学の知見と古田史学の方法が見事に結合し結果的に、日本の定説を離れ、基本的に古田史学の方法論の正しさを明かすこととなっています。

 このような、古田史学の基本認識を追認する論文が、学界の一端の紀要で公開されるとは、古田氏も予想されていなかったのではと考えます。

 白川漢字学自体がアカデミズムからは異端視されながら、その圧倒的な学問内容、質量から日本よりも台湾、中国から評価され最終的に周囲の研究者から文化功労者、文化勲章へと推薦を受け公的な評価が得られたのは、ご存じの通りです。

 そして現在も、基本的には官学アカデミズムからは無視をされ、都合の良いところはその出所を隠し、ツマミグイされているのが現状です。これは、まさに古田史学と同じ扱いとなっています。


 ただし、白川漢字学も文化勲章に輝き、その内容も無視できるものではないので、わずかながらウィキペディアにもある通り、殷周代社会の呪術的要素の究明は、東大の平勢隆郎ら古代中国史における呪術性を重視する研究者たちに引き継がれ、発展を遂げています。

 しかし、真の意味で古代学的な漢字研究の成果が生かされるのは、今回の論文のような歴史学の中心的課題に対してであり、これから大いに進められるものと考えます。

 今回、張氏の論文が立命館白川靜記念東洋文字文化研究紀要』に発表されたことは、権威に追随することなく孤独な研究を続けてきた白川氏の学風を良く表しています。 この意義を理解いただくため、まづ白川漢字学に対する藤堂明保氏による難詰について述べねばなりません。


 白川氏の主著である『説文新義』も最初は書家、篆刻家の愛好者10人の撲社での個人宅での講話、から始まり白鶴美術館誌として印刷されたものです。そして、ここで、『金文通釈』全巻、また『説文新義』十五巻という氏が全力を傾けた著述がなされました。主著著述後、一般へ展開の手始めとして書かれた岩波新書『漢字』で一般に世に知られましたが、これに対する安本美典に負けずと劣らない罵詈雑言に満ちた書評を岩波の雑誌『文学』に発表したのが東大全共闘シンパの藤堂明保氏です。

 これに対し、「文字学の方法」という反論が、『文学』に発表されます。両者の相違が分かる所を最小限引用してみます。


 「以上によって読者は、私の意図する文字学の目的と方法とが、藤堂氏のそれと全く違うものであることを理解して頂けたであろうと思う。目的も方法も、明らかに違うのである。卜辞や金文に対する、資料としてのとり組み方も違うのである。音義派の章太炎が、おそれるようにして甲骨文や金文を避けた理由を、私は理解することができる。そういう伝統が、音義派の追随者たちを支配している。それは、卜辞や金文学が、羅振玉や王国維によって京都に移植され、この地で大きな成果をあげてきたという研究史的な事実とも関連している。

 しかし古代文字を研究するのに、その唯一の資料である卜辞や金文を十分に理解することもなくして、他に一体どのような方法が残されているというのであろう。章太炎の音義説を、スエーデンの東洋学者カールグレンの音韻学で改編してみても、そこには若干の思いつきしか生まれない。その思いつきによって逆に資料を解釈しようとするのであるから、解釈は漫画的とならざるをえない。


 確かに私と藤堂氏とでは、「射程」がちがうのである。また、そのあり方がちがう。しかし私にとって、それは射程内の内とか外とかいう問題ではない。文字学は私の問題の出発点であり、また私の帰着点でもある。それゆえに、私は〔説文新義〕を起稿し、わが国でかつて試みられたことのない規模と方法とをもって、その完成を期しているのである。


 最後に、私がこのような文章を書くに至った事情について一言し、読者の寛容を求めたいと思う。私ははじめ、このような品格をもたない書評を無視する考えであった。それは、氏の書評が、社からの依頼原稿であるということであったし、またこのような節度のない非難には、もちろん答える必要がないと考えたからであった。この書評は、あらゆる点で書評としての節度を無視している。特に私の従来の研究に対して、殆ど知識を持たれていないようであり、驚くべきほど理解が不十分である。


 それは私としては一向にさしつかえないことであるが、私がこの書の執筆者として不適当であるというような発言は、私の研究に不案内な人ならば、なお慎むべきであろう。しかしそれも、私にとっては何の痛痒もないことである。ついには、本書の編集部に対しても、執筆者の選択を誤ったという攻撃が加えられた。これについては私も著者として共同の責任を負うものであるから、不本意であるが一言する必要があると思うに至ったのである。(以下一部省略) 

 多くの友人たちがこの書評についての感想を述べてくれたが、それは概ね二つの点で一致していた。その一つは、評者は果たして〔漢字〕を理解しえているのであろうかということであった。また少なくとも書評の執筆者という責任の上に立って、理解しようと努めたのであろうかという疑問が述べられた。研究上の論争ということならば、このような形式でいうべきではないからである。第二には、この書評には一種の権威主義的妄想があるのではないか、ということであった。


 私もこれらの感想には同感である。なお私としてもう一つ付け加えておきたいことがある。それはこの〔漢字〕が、やがて反動者に利用されるであろうとし、「どういう連中がそれを言い出すかは、もう目に見えている」という、思わせぶりな結末の一語である。おそらく評者は、自らが全共闘の闘士であるという自負のもとに、この発言をしているのであろうが、全く余計なことである。 私はその書の末尾に、「古代文字の世界は終わった」としるしておいた。古代文字の研究は、学問としてそれ自身の目的をもっている。その後の漢字の歴史、国字問題としての漢字については、また違った次元の問題として考える意味を、私はそこに含めておいたつもりである。

 権威主義と学閥の愚かさを憎むがゆえに、私は今日まで孤独に近い研究生活を続けてきた。学問の世界は厳しく、研究は孤詣独往を尊ぶ。それぞれの研究者が、それぞれの世界を持つべきである。しかし、真摯な探求者が他に一人でもいることは、大きな力であり喜びである。たとえば、いま、有坂秀世のような人がいてくれたならば、わたしも音韻学の上から適切な批判を受け、自己の研究を進める上に、有益であったのではないかと思う。学問の世界は、あくまでも純粋なものでなければならないと考えるのである。」(『文字逍遥』「文字学の方法」平凡社刊)


  これだけで、白川漢字学の立ち位置、藤堂明保氏の音韻学的「単語家族説」という学問の性格、藤堂氏の権威主義的性格は明らかかと思います。

 「ああ!そうなんだ!」とピンときた”のは全く正しい感性で、さらにこのように学問自体に“?”が付くものということです。従って、独自の観点に基づく『学研漢和大字典』を“わかりやすい”漢字の理解以外に学問的な論証に使用するには細心の注意が必要ということです。というより、その方法論からして、学問的とは言えないことを白川氏は『説文新義』の巻十五、通論編、第五章 「二、古代文字学の方法と目的」で東大の加藤常賢博士の「漢字の起源」、藤堂明保氏の「語源辞典」の文字説で検討しています。


 藤堂氏の吾・舎・言を形聲、曰・善を會意とする説に対し、その會意字の説明は、貧弱にして無内容を極めている。「以上二博士の説くところは、字形を論じては王筠・徐灝また林義光の文源に遥かに及ばず、聲義を論じては楊樹達の諸書に譲ること数等である。殆ど章氏文始、馬氏疏證の荒誕に近い。」とされています。(荒誕:[名・形動]《「誕」は、うそ、いつわりの意》おおげさで、全くでたらめであること。またそのさま。「古代ブームに乗った―な万葉論」

 これに対し、ウィキペディアによれば「中国古代学者で東京大学名誉教授の加藤常賢(1894-1978)は、晩年講義で白川の『漢字』を罵倒していたといわれる。」というありさまです。 しかし、今になってみればどちらが学問というにふさわしいかは、おのずと明らかです。


 (張氏の)論文の内容については、「成王之時、 越常獻雉、 倭人貢暢。(成王の時、越常雉を献じ、倭人暢 を貢す。)」の倭人を安徽省定住していた倭人とするのは、後に述べる点に関連しますが今後検討を要すると思われます。

 また、文、顔等の文身については正に白川漢字学の説くところで、文は従来の説文学系の文字説からは襟の胸のところで交わった形としています。(手元の漢和辞典をご覧ください。) ただし、顔の音はガンであり、日子(元は太陽の男の意か)の音との結びつきの解明が今後の課題と考えます。   


 これに関連し、先に挙げた『説文新義』の巻十五、通論編、第五章 「二、古代文字学の方法と目的」で甲骨金文学論叢に発表された。「釈文」の文身について「東夷系の種族である殷人の創始を示唆するもので、中国の古代文字は、このような沿海文化を背景として成立する。」という、古田氏が蚩尤文字として提起(『古代に真実を求めて 第十五集』34p)されたことに関連する重要な論点かと思います。

 これは、ないものねだりかもしれませんが張氏が触れていない問題で私が重要と考えているのは魏志倭人伝の伊都国の官、爾支(ニキ)、副官の泄謨觚(セモク)、柄渠觚(ヒコク)と奴国の官、兕馬觚(ジマク)についてです。

 これについて古田氏は『俾弥呼』で”見馴れない文字”であり、「千字文」以前の他の文字群とは異なる”ちがう時点”、すなわち”より早い時期”の流入時の漢字、また、その”訓み”なのではあるまいか、と記すにとどまっております。

 この点に関し、現在2名の方が周代の青銅器に由来する文字であることを指摘しており、私もそれに全面的に与するものです。その根拠は先の 周の時、天下太平、越裳(えっしょう)白雉(はくち)を献じ、倭人鬯草(ちょうそう)を貢す。  (巻八) です。

 周代に倭人が貢献し、青銅器による「賜觚」あるいは「拜觚」の儀を理解し官名に取り入れたと理解されます。そして、伊都国、奴国の歴史の古さが証されると考えるものです。(正木裕さんが、史学会総会で講演されていますが残念ながら都合で出席できませんでした。近々史学会会報などで発表されると思います。)

 青銅器については白川氏の著書『金文の世界 殷周社会史』(平凡社 東洋文庫)があり豊富な写真と解読がされており、この辺は是非張氏の見解を聞きたい所です。(以上)


●今日は、久し振りに所属クラブの役員懇親コンペに出かけ、残暑残る中で汗を流しました。明日からの足腰に残る痛みの心配もありますが、脳の働きも鈍くなり、KH氏の「張氏の論文の感想」の転載で済ませてしまいました。