なぜ「奴国」は糸島平野なの? 25.07.24 | 棟上寅七の古代史本批評

なぜ「奴国」は糸島平野なの? 25.07.24

●伊都国の位置について古田先生が書いていらっしゃるのを見ていっています。邪馬壹国についての最新の著作『俾弥呼(ひみか)』ミネルヴァ社2010年 には「伊都国」の場所については問題なしとされたのでしょう、何も述べられていません。古田先生と谷本茂氏の共著『古代史のゆがみをただす』新泉社1994年 に次のような記述があります。



【「不弥国」が里程の書いてある最後の国です。ですから、不弥国が邪馬壱国の玄関にあたる国であることは最初からきまっていたわけです。「不弥国」の位置を算定するときに、糸島郡の伊都国から一里を九〇メートルでとれば、博多駅ちょっと東によるぐらいにいき、七五メートルでとると姪浜の室見川下流ぐらいにしかいかないわけです。伊都国の範囲は前原からどんなに突き出しても伊都神社のあたりという結論になっていたわけです。】

七五㍍だと、そのような範囲になるというのですが、七六~七七㍍だとどう変わるのか、些少だからネグレクトされたのでしょうか。やはりここはまず、新しい物指ではかったら、というチェックがまずあってしかるべきでしょう。

その新しい物指だと、七五㍍の場合より、約ニパーセント分だけ末蘆国から伊都国の位置は東へ動きます。その距離は一.ニキロですから、前原~伊都神社から外れて周船寺~今宿へと伊都国の比定地が東へ動くのです。



これは、今回行路チェックしてみた結果と変わらない、ということです。この、「前原~周船寺」間から「周船寺~今宿」間へ移動したこと自体は、「邪馬壱国」探しにはそう大きな影響はあたえません。「不弥国」の位置が東に一.二キロ動くだけで、そこに接する「邪馬壱国」が「博多湾岸から南へ広がる」地域にあったという結果には変わりありませんが、「奴国」探しには大きな影響があります。

なんといっても、伊都国が前原あたりなら”「奴国」は糸島平野部(低地の丘陵部も含めれば)に存在した”、と強弁できるでしょうが、周船寺になると、不可能になります。なぜなら、直線方向百里ですと、叶岳~飯盛山の山地を越してしまい「早良平野」に届いてしまうのです。

では、何故古田先生は「奴国」を糸島平野に押し込めたいのか、という興味ある問題が生じます。


●まだ兄たちが健在、ということで安心していましたが、こればかりは順不同のようです。二歳半違いの次兄が心筋梗塞でなくなり、初七日の法要も終わり一昨日帰宅しました。