両児島私案の傍証になるかな 25.07.08 | 棟上寅七の古代史本批評

両児島私案の傍証になるかな 25.07.08

●鴻臚館の前身は筑紫館だったということまでは『日本書紀』の記述などで分かっています。その前はないのかなあ、黒田官兵衛が福岡城を築造する前は「福崎」と呼ばれていたそうですし、何か情報がないかなと、梅雨明けでで猛暑日となったりで、わが家でネットをサーフしていました。


福岡の古地図を見ていたら、昭和の初期の地図がありました。福岡城あたりの地図はあまりはっきりしませんが、西戸崎の大岳がはっきりと「島」であるようすが見て取れました。


敗戦後進駐してきた米軍がゴルフ場として均された丘陵地帯が、それ以前の姿で絵図に描かれています。『古事記』の「両児島」に、「志賀島と西戸崎」と比定したのですが、その私案の可能性が高まったかな、と思われますがどうでしょうか。


棟上寅七の古代史本批評-福岡市鳥瞰図 南から北を見る クリックすると拡大します


棟上寅七の古代史本批評-福岡市鳥瞰図 湾外から見る クリックすると拡大します

「南から北へ鳥瞰した図」と「博多湾外から鳥瞰した図」の双方とも、大岳を中心とする西戸崎地域を「島」と見えるように描いています。