半沢英一『邪馬台国の数学と歴史学』を読んで 25.07.06 | 棟上寅七の古代史本批評

半沢英一『邪馬台国の数学と歴史学』を読んで 25.07.06

●昨日朝何となく、予定を見ようと手帳を探してみたけれど見当たらず、確か何もなかったなあ、と天気も良くないし雨読の日としました。ところが、9時過ぎに所属ゴルフ場から電話があり、「今日のグランドシニア会はキャンセルですか?」「あっ」と後は声も出ませんでした。ゴルフの予定を忘れる、というのは、かなり老人力が付いてきています。「同伴競技者の皆さんに謝っておいて下さい」とクラブの係の人に頼むのがやっとでした。


今朝も珍しく長兄から電話があり、何事か、と思ったら、「昨夜の同窓会幹事の集まりに欠席したのは何か具合がわるかったのか?」と聞かれました。「手帳が見当たらなくて、予定が入っていたことを思い出せなかった」、と、これまた平謝りです。今から、幹事にメールでお詫びをしなければ、と思っています。


●「短里問題」をネットで見て行っている時、半沢英一『邪馬台国の数学と歴史学』という本にいき当り読んでみました。半沢さんは「季刊・古代史の海」によく投稿されている古代史に興味を持たれている数学者の方のようです。

経歴を拝見しますと「東北大学卆金沢大学準教授1949年生」とありました。魏志が短里を使うことになった経緯をご自分で調べて書かれています。


古田先生の著作もなかなり参考図書に上げていますが、古田先生が東北大学『文芸研究』に発表され、その後、『多元的古代の成立(上)』、その後の、『よみがえる九州王朝』で、この「魏・西晋朝短里の方法」を取り上げていらっしゃいます。もし半沢さんがこれらの古田論文を読まれていたら、半沢さんのエネルギーもかなり消耗せずに済んだと思います。それにしても現役の大学準教授でお忙しい身なのによくも出来ることだ、と感心します。


倭人伝の行路の解釈には、取り立てて文句の付けようはありませんし、不弥国と邪馬壱国が接している、ということを「南至邪馬壱国」の文章に見れる、「距離の無入」という数学者ならではの解釈など素晴らしいものがあります。(ゼロの観念がなかった、とされる古代中国数学と言われているが、数学書を調べると「無入」という概念があった、とされます。)


魏朝時代の数学者劉徽が著した『九章算術』に使われている「里」が『周髀算經』に用いられている「里」と同じである、ということから倭人伝の里はこの『九章算術』の短里、76~77メートルが用いられていた、ということが半沢さんの本の骨子です。


棟上寅七の古代史本批評-『邪馬台国の数学と歴史学』 ビレッジプレス 2011年刊



古田先生の道行き叙述については全面的に同意されていますが、邪馬台国は甘木となります。魏使が上陸した「末盧国」は、壱岐から千里の博多湾、とされ、そこから東南五百里の小郡あたりに「伊都国」、そこから東100里の小石原川流域に「不弥国」、そこに接したところが「甘木」というわけです。

全く地名の遺存性など完全無視の半沢説です。しかも、「奴国」はどこにあったのかについての半沢さんの説は「伊都国」=小郡あたりとしていますが「奴国」はいい加減な奴です。「不弥国」=秋月近く、邪馬壱国=甘木、としますと、小郡から東南100里ですと筑後川左岸流域の田主丸あたりになります。
そうなりますと、邪馬壱国の勢力範囲は甘木から筑後川右岸の極めて限られたエリアになり七万戸の大国の説明が苦しくなります。そのためか、「奴国」は小郡から太刀洗あたりにあった、などこの本の記述には数学者らしくない記述の乱れも見られます。


蛇足ですが半沢さんが韓伝にある記事を引用しながら、「家」と「戸」が同義異語とされるのも、数学者らしくないミスと思います。数学にさして強くない寅七ですすし、数学の専門家に全く失礼と思いますが、文献の早読み見落としは誰しもあるのだなあ、と思いました。(06.26のブログ参照 馬韓国の総数50余国、という条件を考慮されていないようです)


この本の後半は、「邪馬台国のその後」になるのですが、邪馬台国は末期的弱体政権だったとし、前方後円墳の全国展開・・・という定説の歴史観を展開されるのには、失望以外の何物も感じませんでした。


古代中国数学に「無入」という概念があった、については改めてチェックしようと思っています。