不弥国=ふみ国=文国 は成り立つ? 25.07.04 | 棟上寅七の古代史本批評

不弥国=ふみ国=文国 は成り立つ? 25.07.04

●昨日は有明の乾燥摘み海苔や植木西瓜などを買いに熊本方面に出かけました。夕方には北九州で人に会う約束があり、1時過ぎに高速道路に乗った途端物凄い豪雨に見舞われました。ラジオでは新幹線の運行一時中止などを伝えていましたが、3時過ぎには小降りになり、スリップ事故に巻き込まれることもなく、予定通りに用事を済ませることができました。天気予報を甘く見ないこと、という教訓を得ました。


●今年も前半を過ぎ。七月に入りました。昔の言葉で「ふづき」「ふみづき」です。倭人伝の不弥国は語感から「うみ国」とされていますが、そのまま「ふみ国」でもよいのではないか。金印を貰った国で一番早く文字の習得をした国、という意味で「ふみ国」と名乗ったというのは、どうでしょうか、やはり牽強付会でしょうね。


●国土地理院の地図を買ってきて、糸島近辺の地形などを眺めています。やはり、糸島平野に「奴国」を収めるのは無理があるなあ、と感じています。


倭人伝の距離記事には、「余里」というように「余」がついている場合があります。古田先生は、対海国は「方四百余里」で、一大国は「方三百里」と「余」が付いていないことを例に上げられて、次のように解釈されています。(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』1993年原書房)


【余というのは強です。余がないのはぴったりか弱なのです。そういう用法なのです。そこで壱岐を測ってみると、九五メートルでは余地がありすぎ、七〇だと少し余るのですが、「弱」ですから、朝鮮半島での大雑把な測定を微差調整しますと、七五と九〇のあいだで「七五に近い数」であるという結論になりました。】(同書p100)


この論でいきますと、「末盧~伊都」500里、「伊都~奴国」東南100里は、「余」が付いていませんから、それぞれ「ぴったりか弱」です。

つまり、末盧~伊都は、末盧国を西唐津(唐津漁港、菜畑・桜馬場の弥生居住遺跡にちかい)あたりとすると、筑前前原までのJRのキロ程では32.1キロ(1里=76.5メートルとした場合、419里であり、500里とは差があり過ぎます。これでしたら400余里の表現となることでしょう。

少なくとも「前原よりもかなり東に伊都国はあった」ことは言えると思います。そして、前原より東に伊都国がくれば、そこが何処であろうと、そこから東南100里(8キロ弱)の奴国は糸島の平野部には比定する「場所」が存在し得ない、というのが地図に物差しを当てながら眺めた感想です。