この間、幸運と幸福について書いた。


【思索】幸運は金、幸福は水
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これに付け足して書くんじゃけど、幸運と幸福の一番大きな違いは何かっちゅうと、幸運と不運の合計は常に100なのに対して、幸福と不幸の合計は必ずしも100にはならんっちゅうことじゃのう。



ある社会において、あることについての幸運をつかむ人がその全体のうちのn%じゃったら、同じことについて、不運に陥る人は(100-n)%じゃのう。


例えば、宝くじを買って当たる人が、購入者全体のうちのn%じゃったら、外れる人は全体の(100-n)%じゃろ。


結局、ある人が幸運をつかむっちゅうことは、別のある人が不運に陥るっちゅうことじゃ。


つまり、幸運は、幸福と違って、常に他人を押しのけて掴むものじゃ。



そうすると、わしらは、以下の、おなじみの問題にぶち当たるわけじゃ。


「他人を押しのけてまで、自分の幸運を掴むんはええことなんじゃろうか?悪いことなんじゃろうか?


特に、その幸運が自分にとって、どうしても必要なものじゃったりしたら、どうしたええんじゃろうか?」


これに対する答えはなかなか難しいわ。



ほいじゃがよ。


上の問題を、ちょっと発想を変えて考え直してみると、こうも考えることができるわけじゃ。



まず、幸運っちゅうのは、2種類あるわのう。


ひとつは、「どうしても自分にとって必要なもの」で、もうひとつは「自分にとっては必ずしも必要のないもの」じゃ。


で、その上で、もう一度世の中を見渡してみると、ひとつの面白い事実に気がつくわけじゃ。


それは何かっちゅうとのう。


「世の中には、たくさんの幸運が散らばっとるんじゃが、そのうちの大抵のもんは、自分にとっては案外必要のないもんじゃ。」


っちゅうことじゃ。



で、その上で言うんじゃけれども、世の中のことを考えたら、自分にとって必ずしも必要のない幸運は、あえてつかまん方がええんじゃなかろうか。



例えば、ある大人が、マクドナルドに行ったとするわのう。


で、今、なんとかセットを買うと、子供に大人気のおまけがついてくるとするわのう。


しかも、それはなくなり次第終了の限定品じゃ。


そうしたとき、あんたは、なんとなくついでに、それをもらってしまうかもしれん。


ほいじゃがよ。


自分がその限定品を手に入れるっちゅうことは、そのかわりにもらい損ねる人がひとり出るっちゅうことじゃろ。


で、そのもらい損ねる人っちゅうのは、そのおまけを欲しがっとる子供かもしれんわのう。


ほしたときに、もう一度考えてみるんじゃが、わしらにとって、そのおまけは、欲しがる子供を押しのけてまで手に入れんといけんもんなんじゃろうか。


そうではないような気がする。



もう一度考えてみるんじゃけれども、世の中を生きておって、なんとなく転がっておる幸運のうち、自分が本当に掴む必要のある幸運はどんぐらいあるんじゃろうか。


わしゃ、どうも、それは案外少ないような気がする。


「今、○○を買うと、××が付いてくる」っちゅうんじゃけど、その××がいらんような気がする。


世の中には、譲れん幸運に夢中になって、他人に譲れる幸運を譲り忘れとる人が少なからずおるような気がする。


「もしかしたら、その方がもっと儲かるかもしれん」的な発想が、かえってその人自身の大切で限られたリソースを日々無駄に奪っとるような気がする。


そがあなもんは求めん方が、身軽でおられるような気がする。



「不要な幸運」に振り回される気持ち。


こら、いわゆる「雑念」であって、「煩悩」の元じゃ。


ほいじゃけん、この文章の結論を言えば、以下のようになるわけじゃ。



「自分にとって不要な幸運はあえて掴まん。(`ω′)! 」


それはほかの人に回してあげればよいのじゃ。




P.S.ついでに幸福についても言うとくと、ある人が幸福になったけえ言うて、ほかの人が不幸になるとは限らんわのう。


幸福、不幸に定員数はないわけじゃから。


ほいじゃけん、幸福は、幸運と違って、他人に遠慮せずに、好きなだけ求めたらええんじゃないかしら。


っちゅうても、個人的な幸福ばかりを求めとったら、社会的に必要のない人になってしまうかもしれんけれども。


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