私は2015年7月から横浜市主催の「よこはまウォーキングポイント」運動に参加しています。(参照=>「来年の目標」) 当該記事を読んでもらえば分かるように、一昨年の12月には三千万歩の大台まであと約260万歩というところまで来ていました。当時の私は年間約三百万歩以上のペースで歩いていたので、早ければ八月遅くとも10月には大台クリアできると思って、それを2023年度の目標としたのでした。ところが昨年の2月頃から体調が思わしくなくなり、既にご報告の通りネフローゼ症候群という難病に罹ったため昨年度中の目標達成はとん挫せざるを得ませんでした。年が明けて病気も一応緩解ということになり、少しずつペースを取り戻しています。

 そんなわけで約半年遅れましたが、本日やっと三千万歩の大台に達することができました。次の目標は82歳までに五千万歩達成を目標にしたいと思っています。 

 

 

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 1月20日の記事にて、一次性ネフローゼ症候群については緩解したとのことをすでにお伝えしてありますが、まだまだ完治にはほど遠いのが実情です。2カ月ごとに経過観察しながら、ぶり返しがなければ徐々にステロイドの摂取量を減らしていく、というプロセスが順調にいってあと一年は続く見込みです。

 どんな病気でもそうだと思いますが、腎臓病で特に問題になるのは食事制限です。私の場合特に留意するように言われているのが、一日に「塩分とタンパク質の摂取量をそれぞれ6gと50g」以下に抑える事です。平均的な日本人の一日の食塩摂取量は約10gほどであると言われています。私はアジの開きにさらに醤油をかけて食べていた口ですので、おそらく1日に15~20gぐらいの塩分をとっていたのではないかと思っています。漫然とした食生活を送っていると、とても1日に6グラム以下に抑えることは不可能です。
 まず第一に外食を止めました。外食で食べるものはかなり塩分が高めです。例えば、ココイチのビーフカレーを私は大好きなのですが、一皿で3.2gもの食塩が含まれています。町中華のはんちゃんラーメンなんていうのは論外です。というわけで、この10か月間というものただの一度も外食したことはありません。

 もちろん自宅で食べる食事にも気を配らなくてはなりません。若い頃から妻に塩分を控えるように口酸っぱく言われていました。それでも私は赤いきつねのスープを全部飲み干していました。今となっては後悔しきりですが、ここまで来て一念発起しました。口にするものはすべてその成分表示に目を通します。塩分含有量が分からないものは原則として口に入れません。調味料はすべて減塩のものにしました。パンも山崎パンの減塩食パンに、うどんは無塩のものに代えました。一日3食のうち2食は1.5g未満を目途にしています。おそらく現在の私の一日の食塩摂取量は5g以下のはずです。

 減塩パンも無塩うどんも最初のうちは違和感あり過ぎでしたが、慣れるとその味わい方が分かってきます。減塩の調味料について言うと、実はあまり意味がないような気がしています。普通の醤油に代えて減塩醤油を使ったとしても、塩味というのは結局塩の量に比例するからです。50%の減塩醤油を使うなら、初めからふつうの醤油の使用量を半分に減らせば同じことなので、その方がコスト的には安くつくと思います。重要なことはむしろ調味料を薄めないで少量使用することだと思います。したがって汁物はできる限り避けます。みそ汁やラーメンは一切食べません。麺類はつけ麺で、それもつけ汁はごく少量つけるだけです。

 

 若い頃から塩分摂り過ぎていると妻から散々うるさく言われても、決して改めることのなかった私ですが、さすがに今回は心を入れ替えて摂生に努めています。いざ覚悟を決めれば、意外と苦にならないものです。それに薄味になれてくると、食べ物の微妙な味わいに敏感になります。特に淡白な米の味わい深さがはっきり分かるようになってきます。おかげで米のご飯が大好きになって、食事の楽しみがむしろ増えました。

 

 というようなわけで、腎臓病でない方にも減塩は是非お勧めしたいと思います。塩分による腎臓へのダメージはどんどん積算されていき回復することはありません。年とってもラーメンを食べたい人は、今のうちからきちんと対応する必要があります。

 

 

お年玉年賀はがきの2等賞で郵便局からもらったお菓子の詰め合わせ。塩分の含有量はどれもほとんどがゼロ。

※「闘病日記」というカテゴリーを新たに作りました。

 

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 普通「運も実力のうち」という言葉はよく聞くが、「実力も運のうち」はあまり聞きなれない言葉である。実はこれはNHKの白熱教室で知られるハーバード大学のマイケル・サンデル教授の新しい著書のタイトルである。私はまだその本を読んでいないので、サンデル先生がどのような意図で「実力も運のうち」と仰っているのかはよく分からないが、よくよく考えてみればなかなか意義深い言葉であるように思えてきた。

 

 大谷翔平選手の選手としての報酬は10年間で7億ドルだという。年俸100億円である。それ以外にスポンサー企業からの副収入が70億円もあるらしい。私のような貧乏人には見当もつかない金額だが、金を出す側としては大谷選手にはそれだけの市場価値があると踏んでいるわけである。その市場価値の源泉は、野球選手としての力量、魅力的なパーソナリティやルックスから来るものであり、それらはみな大谷選手の属性つまり彼の実力と言ってもよいと思う。年俸100億円は彼の価値に対して支払われるのであり、それは親の七光りでもなければ宝くじに当たったわけでもなく、もちろん他人から掠め取った物でもない。文字通り彼の実力に対する対価として支払われるのである。

 

 だから誰も文句を言ったりしない、多分‥‥‥。

しかし、誰もが納得したとしても、あえて文句つけたくなるのがへそ曲がりの私の性分である。大谷選手と同世代の若者でコンビニや飲食店で働いている人々は少なくないだろう。彼らの多くは時給千何百円ほどで働いているはずだ。仮に時給1500円で月200時か寸働くと仮定すれば、月収は30万円で年収は360万円になる。大谷さんの年俸100億円とはえらい差がある。金額が実力の反映であるとするならば、彼はコンビニ店員の3000人分の働きを一人でこなすことになる。私の常識が「そんな法外なことがあり得て良いのか?」とわめいている。

 

 しかし少し考えてみれば、その法外な事態に正当性を与えているのは現代社会の資本主義メカニズムであることはすぐ分かる。仮に大谷さんが江戸時代に生まれていたら、これほどの社会的成功を収めることは難しかっただろうし、もし野球ではなくバドミントンの選手への道を選んだりしたら、たとえ超一流選手になれたとしても現在のような収入はとても望めなかっただろう。そのように考えてみると、「3000人分に相当する実力」というような実体は実はどこにも存在しないということがよく分かるのである。すべてのことはいろんなことがらの関係性つまり因縁によって決定するのであって、言ってみればすべてが運であると言っても差し支えないのである。

 

 また、大谷選手は生まれる前に「こういう家庭に生まれ、こういう人間に育ちたい。」と意志したわけでもない。たまたま奥州市の円満な家庭に生まれすくすく育って、立派な野球選手として育っただけのことである。すべては因縁であり、実体としての実力やそれを志向する主体性自体も存在しない。一切皆空である。

 

1月26日の夜明け時、満月が茜色に染まる西の空にまだ残っていた。

 

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 昨年の9月28日の記事(==>「難病に罹ってしまいました」)で、腎臓病に罹ってしまったことをご報告しましたが、1月18日の受診で主治医の先生から「蛋白/クレアチニン比が 0.3 を下回りました。寛解です。」と告げられました。あっさり「寛解」と言われたので拍子抜けしてしまいました。

 

  検査日         9/18        10/19   11/16   12/14     1/18

蛋白/クレアチニン比     3.09     1.30            0.74           0.67          0.26

  アルブミン                   2.3              2.9              3.5             3.6           3.7

 

 蛋白/クレアチニン比の正常値は 0.15 以下だが、0.3 を下回れば一応ネフローゼ症状を脱したと見做すらしい。ただ、血中アルブミン濃度(正常値は4.1以上)がまだ低いままなので、寛解と言うほどに回復したという実感は持てないでいる。主治医の先生によれば、この症例にしてはほぼ理想的な回復ぶりらしい。とは言ってもまだまだ先は長い。今後は2か月ごとに、ぶり返しがないことを確認しながらステロイドの摂取量を減らしていくことになるのだが、ステロイドの減量幅はより緩やかにしなければならないので、順調にいってもあと1年以上は見込んでおかなければならないということらしい。

 

 なにはともあれ、ネフローゼ症状の寛解は私個人にとっては今年最初の吉兆である。できうることなら、パレスチナやウクライナそれから能登の方々にも同様の幸運がおとずれるようなよき一年であってほしい。

 

お年玉付き年賀はがきで2等が当たった。しかも実はこれが2回目で、私は年賀はがきのくじ運がかなり強いらしい。

 

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 最近、2歳の女の子が米国における心臓移植に成功したというニュースが流れた。いたいけな少女がやっと人工心臓から解き放たれたと知って、何となく心が軽くなったような気がする。しかし、米国での心臓手術はとてつもなく費用が掛かる。この手術のために、なんと5億3千万円の寄付金が寄せられたという。小さな命の苦しみをわがことのように受け止めた多くの人々の善意である。人ひとりの命がそれほど重いものと、人々が受け止めているからこそだと思う。

 

 一つの命がそれほどいつくしまれている一方で、ガザではいかにも無造作に人々の命が奪われ続けている。イスラエルの自衛戦争の名のもとに、なんら抵抗手段をもたない多くの人々が一方的に殺戮されている。すでに2万人以上の人々の命が失われたという。イスラエル側はテロ組織ハマスの排除の為と言うが、被害者のほとんどはただの一般市民だ。おそらくイスラエル側には「一人のハマスを排除するためには、千人のパレスチナ人を巻き添えにすることも躊躇しない。」というような了解事項があるような気がする。イスラエルにとってパレスチナ人の人口が減ることは望ましいことでもあるからだ。だからイスラエル軍はそこにはマスの気配があるというだけで、病院だろうが学校だろうがミサイルを撃ち込むことをためらわない。すでにそのハマスがほとんど反撃能力をなくしているにもかかわらずである。

 

 これは既に自衛戦争などではなく、行われていることはただの一方的な殺人、ただの犯罪である。

 

 このことについてアメリカ合衆国は重大な責任を負っている。イスラエル建国以来アメリカはイスラエルに対し累計1,580億ドルもの援助を行ってきたし、近年も中東におけるイスラエルの突出した軍事力を維持するために年間38億ドルもの軍事援助を与え続けている。だから本来ならばアメリカの支持なしにイスラエルはいかなる軍事行動も起こせないはずで、アメリカはイスラエルの行き過ぎた作戦行動を制止する義務があるはずなのだ。しかし、アメリカはイスラエルに対して決して強い態度で臨むことはない。常にイスラエルの「自衛戦争」を支持する立場は崩さない。常にアメリカに属国扱いされている日本から見ると信じられないことだが、小国イスラエルに超大国家アメリカが鼻面を引き回されているように見える。

 

 アメリカで反イスラエルの立場を表明しながら政治家を続けることはなかなか困難なことであると言われている。潤沢なユダヤマネーが対立候補の選挙資金につぎ込まれるからである。アメリカの三大ネットワークをはじめとする有力なマスコミは大抵ユダヤの影響下にあると言われている。中東における紛争についての報道はイスラエル=アメリカは正義でアラブ諸国は悪という図式にで報道されやすいが、決してそれほど単純なものではない。映画産業もほとんどがユダヤ資本なので、シオニズム運動も「パレスチナはユダヤ人にとって約束の地」というようなでたらめが肯定的に取り上げらるし、ユダヤ人が味わってきた受難の歴史は映画化されても、パレスチナ難民がイスラエルから受けてきた理不尽な悲哀の歴史はそのまま黙殺である。いつの間にか、「イスラム教徒=凶悪なテロリスト集団もしくはその支持母体」というような粗雑な図式がアメリカ人の頭に叩き込まれてしまった感がある。大体、「民なき土地に土地なき民を」というシオニズム運動のスローガンからしてふざけたものとしか思えない。「民なき土地」って一体どこのことか? シオニストからすればパレスチナ人は民でも人でもないらしい。その命も軽いはずだ。

 

 日本では、一人の少女を救うために大勢の人々が5億3千万もの浄財を寄付してくれた。一つの命の尊さ重さを感じていればこそである。命の尊さを知る日本人の政府ならば、イスラエルに即刻停戦を強く呼びかけると同時にアメリカにも強く働きかけるべきではないのだろうか。何でもアメリカの施策に唯々諾々と追随しておればよいというものではない。正義人道に悖る行為を我々の国が公然と見逃すようなことをしてはならないと思うのである。日本の政治家はこういう時に国際舞台で堂々と正論を吐ける人であってほしい。パーティ券問題で汲々としているような御仁には退場していただきたいのである。

 

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腎臓病だがどうしてもカレーが食べたくなった。野菜を思い切り増量して、一個のルーで二皿分の減塩カレーを作った。

まあ、それなりに美味かった。満足。

 

 大谷選手が10年間で7億ドルというでドジャースと契約したらしい。日本円に換算すると年俸100億円という途方もない金額が10年間保証されたのだという。日本のメディアを通して見ると、みなわがことのようにそのことを喜びそして誇りに思っているように見える。しかし、私にはそれがそんなに素晴らしいことだとはどうしても思えないのである。決して大谷選手が嫌いなわけではない。私もこの好青年が大活躍すると嬉しいというファンの一人である。しかし、共稼ぎの主婦がパートで時給1000円前後で生活の為に必死に働いている一方で、青年が好きな野球をやっているだけで1年間に100億円も稼ぐ、ということに私はどうしても引っ掛かりを感じてしまうのである。プロフェッショナルな選手として一つのことに全精力を注ぎむ、それはとても価値のあることだし、我々がそのことに対してリスペクトするのは当然のことだと思う。しかし、私はそのことが直ちに労働価値として金額に換算されてしまうということに疑問を持つのである。アスリートにとって競技は神聖なものであって、金額と交換可能なものでは決してない。「年俸100億円なら頑張るけれど10億円ならそれほどモチベーションが上がらない」などという選手がいる筈はない。アスリートはただひたすら自己実現のためにプレイに精進する、だからこそスポーツは尊いのである。

 

 もちろんドジャースがそれだけの大金を出すのは大谷選手にそれに見合うだけの商品価値があるからだろう。大谷選手が活躍すればますますドジャースの人気は高まり、関連グッズはたくさん売れるし、球場の入場料や広告のスポンサー料も高く売れるだろう。しかし、ドジャースタジアムの入場料(クリック==>「ドジャース 観戦チケットの料金相場」)は既に今でも十分高価で、家族総出で気軽に観戦というようなレベルではないような気がする。スポーツ用品メーカーはもちろんのこと化粧品メーカーまで高いスポンサー料を払ってアスリートを囲い込もうと血道をあげる。 製品の品質改良にコストをかける以上に、人気スポーツ選手を使って商品イメージを高める方が手っ取り早く儲かるからだ。メジャーリーグ・ベースボールに限らず、現在のスポーツビジネスは全般的にコマーシャリズムに毒され過ぎているような気がする。

 

 ここで仮定の話をする。大谷選手が年俸100億円ではなくて20億円で納得したとして、そしてその差額の80億円がドジャーズの観戦客の入場料に還元されたならばどうなるか計算してみよう。年間約160試合して計算すると、1試合当たりの還元額は5000万円になる。そして1試合の入場者数を5万人とすれば、一人当たりのチケット代は1000円安くできるのである。大谷ほどではなくても、ドジャーズには年俸1000万ドル以上の選手が10人以上いる。アスリートだって、努力に応じてある程度は金銭的に恵まれてもよいと思う。しかし、経済的に裕福になればなるほどスポーツのレベルが向上するかと言えば、全然そんなことはないと思う。スポーツそのものを興隆させるためには、一部の選手の給料を押し上げるよりも有効な資金の使い道はほかにいくらでもあるような気がする。けち臭い貧乏人の私は腹の底からそう思うのである。

 

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 私は昭和24年生まれの団塊の世代である。で、昨今の朝ドラで話題になっている笠置シヅ子さんのことは小学生の時分から知っていた。と言っても、歌手としてではなくあくまで俳優としてである。私の知っている笠置シヅ子は、お笑いドラマの三枚目的なわき役として起用されることが多かったように記憶している。そんなわけで、漠然と彼女のことを松竹新喜劇出身の人かなぐらいに思っていた。彼女が歌手であったこと、それも一世を風靡した大スターであった、ということを私が知ったのはずっとのちのことである。彼女が歌手を引退したのは昭和31年のこと、私が小学1年生の時である。まだ日本ではそれほどテレビも一般には普及していなかったし、私が彼女が歌手の現役である時代を知らなかったのも当然のことであった。が、私は俳優としての彼女を憶えているほどにはちょくちょくとテレビに出ていた。それほどの大スターならその辺の事情についてもう少し知っていても良さそうなものだが全然知らなかった。歌手の引退以後は公私にわたって鼻歌一つ歌うことはなかったと言われている。おそらく一流歌手としての彼女の誇りがそうさせたのであろう。

 

 歌手引退後の彼女は新たに俳優業を生業として生きていくことになるが、そのけじめとして各テレビ局や映画会社、興行会社を自ら訪れて次のように自ら申し出ている。(以下、太字部分はWikipediaより引用)

 「私はこれから一人で娘を育てていかなければならないのです。これまでの『スター・笠置シヅ子』のギャラでは皆さんに使ってもらえないから、どうぞ、ギャラを下げて下さい」

自らギャラの降格を申し出る芸能人がいるだろうか? これからは歌手「笠置シズ子」ではなく俳優「笠置シヅ子」として生きていくというけじめなのだろう。潔い処世であると思う。

 

 彼女と同時代に活躍した歌手として淡谷のり子も有名である。東洋音楽学校の声楽科を首席で卒業し「10年に一度のソプラノ」 と称されたほどの逸材である。朝ドラでは茨田りつ子 役となって、スズ子のステージを見て「とんでもなく下品ね」とだけつぶやき去っていく役どころである。淡谷はクラシック出身で笠置はジャズと芸風が全く正反対であるにもかかわらず、当時の軍国主義的な国家体制には双方ともに全く馴染まないという点で共通している所が興味深い。しかし、私はそんな淡谷の反体制的な芸風を大いに評価はするが、その一方で歌手淡谷のり子は全然評価する気にはなれないのである。

 

 というのは、私の彼女に対する印象は「歌のへたくそなただの威張ったおばさん」でしかないからである。若い頃はどれほどうまかったのかも知れないが、私がテレビを通じて彼女の歌を聞いた限りでは、全然声が出ていなかった。声量のない歌手はもはや歌手とは言えない。声帯も筋肉である以上、歳をとれば衰える。人によって個人差はあるが、50歳を越えれば筋肉の衰えは加速する。遅くとも60歳になるまでにはプロ歌手の看板は下ろすべきだと思う。歳をとっても昔を知っているファンにとっては、昔の歌声を重ねて聴くので懐メロ歌手としては通用するが、若い世代には通用しない。現在では五木ひろしや八代亜紀のように60どころか70歳を超えても現役を続けている歌手がいるが、年配ファンにとっては「年をとってもそれなりに味がある。さすがだ。」という風に聴けるかも知れないが、若い世代から見れば意味不明なしらける話でしかない。昨今の歌謡番組が盛り上がらないのはそういうところに原因があると私は見ている。そういう点から見ても笠置シヅ子の出処進退は見事なものだと思う。正真正銘の一流の証である。 

 

 

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 先月は、「論理とはなにか? 」に始まる八回のシリーズで、ロゴス中心主義とそのアンチテーゼとしての仏教的中道思想について解説したつもりだったが、中心テーマになる後半になると閲覧回数が激減してしまった。自分ではかなり力を注いだつもりだったが、もしかしたら独りよがりで稚拙な解説をしてしまったかもしれない。少し未練が残るので、もう一度簡単にまとめてみたい。

 

 「分かるとは分けることだ」という言葉がある。もともと「分かる」の語源は「分ける」からきているらしい。まさにこれは核心をつく言葉だと思う。ロゴス中心主義においては「分かる」と「分ける」はほぼ同義と言ってもよい。「ソクラテスは人間である」と言った時、ソクラテスを人間と人間以外に分別しているのである。もちろんいろんな分け方がある。それは男か女か、ギリシャ人であるかどうか、哲学者であるかないか、とより細かく分けていけばいくほどそれが何ものであるかを分かった、つまり理解したことになる。

 

 もちろんこのように分けて理解するということは必要なことである。それがなければ科学も進歩しないし、日常生活の段取りもうまくいかない。龍樹もロゴス中心主義の全てを否定しているわけではない。ただ一点、絶対的な分類の基準は存在しないということだけは忘れてはならないというのである。前にも述べたが、人間と人間以外を区別する客観的な境界というものは存在しない。繰り返して言うが、人間そのものという本質は存在しない。なにものもそれだけで独立して存在しているものはない、あくまで人間以外のものとの関係性においてはじめて人間という概念が成立するのである。絶対的な基準がない以上、そこにはどうしても恣意というものが入らざるを得ない。それ故、分けるということはあくまで便宜上の方便であって、絶対的なものではないことを忘れてはならないのである。

 

 ところが人は往々にして、便宜上の分類を絶対的なものと思い込むことがある。ヒットラーは「アーリア人たるドイツ人こそ最優秀な民族で、ユダヤ人は劣等民族である。」と考えていたらしいが、彼自身がアーリア人がなんであるかを分かっていたかどうか極めて疑わしい。(「アーリア人」というのは元々は学術用語で、インド‐ヨーロッパ語族の諸言語を用いる人種の総称であったはず。) 彼の考えている「アーリア人」の本質などというものはもともとどこにも存在しないのだ。ところがヒトラーにとっては、アーリア人とユダヤ人の区別は絶対的なものである。その行き着いた先がホロコーストである。区別がイデオロギーを生みだし、それが深刻な信念対立となりうることを忘れてはならない。

 

 現在パレスチナでは、イスラエル軍がガザに侵攻している。イスラエルはハマスとの戦争であるとしているが、現時点ではイスラエル軍が圧倒的な軍事力でもって一方的な殺戮行為を行っているとしか見えない。しかも殺されていく人の約半数が子どもだという。一人のテロリストを殺すためにその何倍もの非戦闘員を平然と殺戮する。そんなことが許されて良いわけがない。イスラエルもヒトラーがかつて行った反ユダヤ主義と同じことをやっているのである。イスラエルではユダヤ人とアラブ人の区別は絶対的である。イスラエルではアラブ人は二級市民に過ぎない。ユダヤ人には子供を沢山産むことを奨励している一方で、アラブ人には産児制限を課す。そういう不平等を公的に課しているのである。そういうあからさまな不条理を公的法制度に持ち込まなければ維持して行けないような国家に果たして存在価値があるのかどうか疑問である。

 

 全ては人と人を区別することから始まっている。言葉と論理による区別がイデオロギーを生み出し、それが人々の分断を正当化するのである。言葉によるイデオロギーを信用しすぎてはならないというのが仏教の中道思想である。

 

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 9月28日の「難病に罹ってしまいました」という記事で、腎臓病はわたしに向いてるというようないかにも達観しているような趣旨のことを述べた。なにしろ普段から、空だ無だの一見偉そうなことを述べている私のことであるから、「さすがに御坊哲は悟っているんだろう」くらいに思った人もいるかもしれない。としたらそれは飛んだ見当違いなので、ここで読者の皆さんの誤解は解いておきたい。私はどちらかと言えばダメダメの落ちこぼれ老人で、ヒマにあかせて言いたいことをブログでぶちまけているだけ、という感じに受け止めてもらえば私も気が楽である。

 

 腎臓病が私に向いているというのはある程度本当のことである。常に体はだるいが、なんの気負いもなくだらだらと過ごしていれば別に苦しくとも何ともない。平地をただゆっくりと自分のペースで歩くにはなんの支障もない、ただ少しでも急がねばならないということになると急に動悸が激しくなり息切れもする。何かについてヤル気を出さねばならない状況になると、ちょっとしんどいだけのはずの病状が頑丈なワイヤーロープのように一変して全身を羽交い絞めにしてくるのである。生きているうちに何かを成し遂げなくてはならないというような使命感を持って生きているような人にとっては、腎臓病に罹るということはもしかしたら死ぬより辛いことかもしれない。

 

 そんなわけで、私のテキトーな性格はある程度は腎臓病向きとは言えるかもしれない。が、しかし病気は病気である、健康状態よりはいろいろ不都合があって当たり前である。肉体的しんどさは私にとって大したことはないのだが、この病気のお陰で私の精神面の弱さがもろに露呈されてしまう事態が起こってしまったのだ。というのは、この病気は体を動かすことだけがしんどいのではなく、頭を働かせることもしんどいのである。だから病気の調子が悪い時は人と会話するのもおっくうになる。会話と言っても入院中は看護師との事務的なやり取りやその場の他愛もない軽口程度なので何ということはないのだが、家に帰ってくると妻と二人きりである。妻は矢継ぎ早に私に問いただしに来る。私の今の状態や考えを知りたがっている訳で、あまりなおざりな生返事で済ますわけにはいかない。しかし、それがしんどいのだ。そのうちだんだん腹が立ってきた。いきなり私の口から怒声が飛び出してきたのである。「うるさいっ!もうええっ。黙ってやんかい。」という自分でもびっくりするくらいの大きな声で叫んでいたのである。(本当にこの時までは自分がこれほど気が短いとは知らなかったのである。)後悔先に立たず、その場ですぐ「ごめん」と言うべきであったが、彼女の顔を見れば涙目ながら相当怒っている。それも当然なのであるが、その顔を見ると素直に謝れなくなってしまった。近しい者への対抗意識というか甘えもあって素直になれなかった。

 

 74歳にもなって未熟なままの情けない老人のお粗末なお話しでした。お笑いください。

 

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 前回記事の手ごたえがいまいちで、あまり真意が伝わっていないような気がするので、もう少ししつこく説明させていただきたい。言葉と論理はわたしたちの日常生活には必要不可欠ではあるが、基本的に2値選択の組み合わせによって構成されているし、そこから出てくる結果も、真か偽か、有るか無いか、やるかやらないか、敵か味方かと言った2項対立でしかない。夕食のおかずはどうするかとか、子ども達の三角ベースのチーム分けをどうするかと言ったようなことなら、さほど問題はない。しかし、あまりにも微妙な要素が複雑に絡み合った、例えば倫理的要素の絡む問題などを単純な言葉と論理に当て嵌めると微妙なニュアンスがすべて捨象されてしまって、とんでもない結論に至ってしまうことが多いのである。中道とか中庸と言うのは、そのような二項対立に陥ることなく、ものごとの真相を見極めようとする態度のことである。

 

 イスラエルとパレスチナ人の対立にしても、本来彼らが対立するいわれはないのである。もともとパレスチナでは、イスラム教徒とユダヤ教徒それにキリスト教徒もともに仲良く平和の裡に暮らしていた。銃を手に激しく憎悪をたぎらせてにらみ合っている彼らは、別の出会い方をすれば親友になれたかもしれない人々なのだ。人を宗教、民族、国家という言葉によるカテゴリーで分断することが、本来は親友であったかもしれない人々を敵と味方に分断してしまうのである。二項対立のわなに陥ってしまうということにより、人間同士の日常的なデリケートな感情の交流などはすべて捨象されてしまう。このことがロゴス中心主義の最大の問題点である。


 ここで少し目先を変えてみよう。近頃よく耳にする言葉で「LGBTQ」というのがある。私たちが学生だった頃は、レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)だけだった。それがバイセクシュアル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)が加わりLGBTとなり、それだけでは終わらずに、いつのまにか"Q"まで付いている。クエスチョニング(Questioning) の略だそうである。性的嗜好ををいくらカテゴライズしようとしてもしきれない、性的志向などというものは厳密なことを言えば人間の数だけあるはずだ。なぜなら人類は進化の過程で偶然できたものに過ぎないからだ。もし人間のイデアという神様が描いた設計図に従ってできたものであれば、規格から外れたものは「不良品」とか「出来損ない」と呼ばれ得るだろう。しかし、人間は決して規格に従って造られたのではない。そのような規格を決定する超越的な存在者たる神もいない。無常の世界ではすべては過渡的で偶然的で常に変化している。人間の遺伝子も常に無計画に変化し続けているのである。「性同一性障害」というが、一体性的志向のどこがどう障害だというのだろう。

 

 以前も取り上げたことがあるが、朝日新聞の「子どもたちの人生を救うために はるな愛さんが考える多様性と五輪 」という記事の中で、はるな愛さんの言葉をもう一度ここで紹介してみたい。

≪ 私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。
「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。
わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。知らなかったり、間違えていたりしたら、それを素直に受け入れる気持ちが大事。一番知らなくてはいけないことは、人のことを決めつけることが、その人を生きづらくさせることだと思います。 ≫

 

 はるなさんは子どもの頃からおかまと呼ばれて差別を受け続けてきた。それはとてもつらいことだったに違いない。長い間その悩み苦しみと格闘し続けてきた。その結果、「そんなもの分からなくて良い」という気づきを得た。そんなことを分かるより、虚心坦懐に思いやりを持って人に接することが大事なのだということに気がついた。一見何でもないようなことだが、なかなか言えることではないと思う。真剣に生きている人の言葉だとも思い、とても強い感銘を受けた。

 

 龍樹に言わせれば、性同一障害も縁起によって生じるのだということになる。縁起と言うのは相依性のこと、なにごとも単独で成り立っているのではなく、他との相対的な関係性によって生じてくるのである。もし、われわれの社会には法律による結婚制度などなくて、他人の自由と人権を最大限に許容するような寛容な精神が行き渡っている。もしわれわれの社会がそのようなものであったなら、現在「性同一障害」などと呼ばれているものは存在しなかっただろう。『障害』も「障害者」も社会が作り出しているのである。

 

 

 

動物であれ植物であれ、生殖はどうしても過剰になりがちである。

 

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