たいていの人は自分の誕生日を知っている。そしていつの日にか死ぬのだと信じている。自分の人生には始まりと終わりがあり、そして今はその間にあると思っているのである。


しかし、よくよく考えてみるなら、このことは親や他人からそう教えられたので、それを鵜呑みにしているだけということはないだろうか。もし、周りにそのようなことを教えてくれる人がいなかったなら、自分の人生に始まりや終わりがあると、おそらく人はそのように考えないのだろう。
人生に始まりと終わりがあることは決してア・プリオリに知ることはできないのからである。


ウィトゲンシュタインは「死は経験することのない概念である。」と言ったが、同様に「誕生」もまた経験することのない概念である。なぜなら意識が生じる瞬間を誕生とするなら、意識のない時を私たちは経験できず、意識の生じたときにはすでに誕生しているからである。


本日のタイトルの「慧玄」というのは関山慧玄、妙心寺のご開山無相大師のことである。ある修行者が慧玄に死について訊ねたのに対し、「わしのところには生死なぞない」と答えたのである。


我々が通常生とか死を論じるときは他人の生死について論じるのである。つまり現象としての人を生物学的に論じているのであって、自己の内面から生死を見つめているのではない。「生」と「死」はあくまで生物学上の概念であって哲学的な概念とは言えないのである。


関山慧玄は当然生物学者ではなく禅者であるから、自己究明という観点からものを見る。生死がないのは当然なのである。


ここであなたは、「『死』がないというのはわかったが、『生』の方はれっきとしてあるではないか。」と言うかもしれない。生と死は反対概念である。死がなければ何を生であるといえようか。論語には「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」という言葉があるが、孔子様も「生を知らない」と言っている。素朴な目で物事を見れば、そういうことになるのである。


おそらく人々は、死を睡眠、生を覚醒の類似概念としているのだろうと私は考えている。しかし、透徹した目で見ればどうしても生死を直感することはできない。では、「今」の状態が生でも死でもないならなんだと問われれば何と答えるか、ただのニュートラルとでも答えるしかないだろう。たぶん禅ではこのニュートラルを「無」と称しているのである。