誰が言い出したのかは知らないが、「英国にいて英国の完全な地図を描く」と言う哲学的な問題がある。


ここで言う完全な地図とは、あらゆる要素を一定の縮尺率で書きこんだものと言う意味である。例えば家一軒々々はおろか、もっと微細なものまですべてが記されているそんな地図である。もちろんそんなものは実現不可能であるが、あくまで思考実験として考えてみるのである。


この地図が例えばどこかの大きな広場で描かれていたとする。と、「英国にいて」とあるので、この広場自体も地図上に記載されていなければならない。ならば当然、この地図そのものもこの地図上に記載されているはずである。


勘のいい方はもうお分かりだと思うが、地図の中の地図にもこの地図が記載されていなくてはならない。というわけで、地図の中の地図の中の地図の中の地図の中の‥‥、というわけで無限に循環してしまう。
このことがなぜ哲学で論じられるのかと言うと、自分が自分を認識できるのかという問題と重なるからである。


客観的な学問においては、客観的な視点と言うものが要請される。客観的な視点と言うのは、対象を俯瞰できる位置と言うことである。例えば英国を俯瞰するためには英国の外にいなければならない、英国内にいて英国の完全な地図を描くことはかなわないのである。


進化論というのは、人間を初めて客観的に俯瞰した学説であるという点で画期的であったと言える。人類を初めて他の動物と同列において科学の俎上にのせたのである。科学が進歩する上で進化論は重要なエポックであった。


公共の学問においては、自分中心の視点と言うものが排除されねばならない。そういう意味において哲学は微妙な立場に置かれている。


哲学においても、公共の言葉で語る「自分」は、他人の目を通した自分あるいは、他人を自分に見立てて語るしかないからである。



御坊哲のおもいつくまま-江の島・稚児ヶ崎
江の島 稚児ヶ崎