遠藤周作の「沈黙」を(再び)読んだ! | とんとん・にっき

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遠藤周作の「沈黙」を(再び)読みました。「純文学書下ろし特別作品」とあり、ハードカバーに入っています。


このシリーズは、例えば安岡章太郎の「花祭」、安倍公房の「砂の女」、大江健三郎の「個人的な体験」、「洪水はわが魂に及び(上・下)」、倉橋由美子の「聖少女」、福永武彦の「海市」、中村真一郎の「夏」、河野多恵子の「回転扉」、等を購入して読んでいます。遠藤周作の本では、他に「侍」や「死海のほとり」がありました。他にももっとありそうですが、探すのが面倒なので、このくらいにしておきます。


okudu


上の「奥付」を見てください。昭和41年3月30日発行、昭和41年8月15日7刷、定価470円、とあります。3月30日は僕の誕生日、それは関係ないけど、3月から8月までで7刷ですよ、当時としてはそうとうな売れ行きです。そして定価が470円、これじゃ文庫本も買えないよ。いずれにせよ50年前に「沈黙」を読みました。その頃僕は、法政大学の前の本屋に注文し、本を届けてもらっていました。この本ももちろん、そこで買ったと思います。


遠藤周作は、「沈黙」を書いた動機を、以下のように述べています。


数年まえ、長崎ではじめて踏絵を見た時から、私のこの小説は少しずつ形をとりはじめた。長い病気の間、私は摩滅した踏絵のキリストの顔と、その横にべったり残った黒い指の跡を、幾度も心に甦えらせた。転び者ゆえに教会も語ることを好まず、歴史からも抹殺された人間を、それら沈黙の中から再び生き返らせること、そして私自身の心を底に投影すること、それがこの小説を書き出した動機である。


「沈黙」は、以下のような書き出しで始まります。


ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していたフェレィラ・クリストヴァン教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである。この教父は日本にいること33年、管区長という最高の重職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老である。


稀にみる神学的才能に恵まれ、迫害下にも上方地方に潜伏しながら宣教を続けてきた教父の手紙には、いつも不屈の信念が溢れていた。その人がいかなる事情にせよ教会を裏切るなどとは信じられないことである。教会やイエズス会の中でも、この報告は異教徒のオランダ人や日本人の作ったものか、誤報であろうと考える者が多かった。


いかなる拷問を受けたにせよ、神と教会を棄てて異教徒に屈服したとはローマ教会では思えなかったのであるが、フェレイラの棄教という教会の不名誉を雪辱するために、どんなことがあっても迫害下の日本にたどりつき、潜伏布教を行うべく、ローマでは4人の司祭が日本への渡航を許可された。ポルトガルではフェレイラ師の学生だった3人の若い司祭が日本潜伏を企てていた。ガルベとマルタ、そしてロドリゴの3人は、恩師だったフェレイラが華々しい殉教をとげたのならば兎も角、異教徒の前に犬のように屈従したとはどうしても信じられなかった。ロドリゴとその仲間は、日本にどうしてもたどりつき、その存在と運命とを確かめたかった。


そのロドリゴが日本へ行く途中の船の中でキチジローと知り合います。ロドリゴはすぐに役人に捕まり、キチジローは簡単に踏み絵を踏んでどこかへ行方をくらまします。その後キチジローはなにかにつけて、ロドリゴにつきまといます。


「わしはパードレを売り申した。踏絵にも足かけ申した」キチジローのあの泣くような声が続いて、「この世にはなあ、弱か者と強か者のござりまする。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、俺のように生れつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ・・・」


その踏絵に私も足をかけた。あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。私が幾百回となく思い出した顔の上に、山中で、放浪の時、牢舎でそれを考えださぬことのなかった顔の上に、人間が生きている限り、善く美しいものの顔の上に。そして生涯愛そうと思ったものの顔の上に。その顔は今、踏絵の期のなかに摩滅し凹み、悲しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。


(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけで充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)


「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」

「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」

「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が傷むようにユダの心も痛んだのだから」



ei1 「沈黙」

マーティン・スコセッシ監督
2017年1月21日公開
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「沈黙」

篠田正浩監督

1971年