西村賢太の「どうで死ぬ身の一踊り」を読んだ! | とんとん・にっき

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西村賢太の「どうで死ぬ身の一踊り」(新潮文庫:平成24年10月1日発行)を読みました。この文庫本の末尾には、「この作品は、2006年1月に講談社より刊行され、2009年1月講談社文庫に収録された」とあります。「何のそのどうで死ぬ身の一踊り」、藤澤淸造の言葉である。この本のタイトルもここからきている。


藤澤淸造(ふじさわ せいぞう)

・誕生 明治22年(1889)10月28日

鹿島郡藤橋村ハ部37番地(現七尾市馬出町)で父 庄三郎 母 古への四子二男として生まれる

・死去 昭和7年(1932)1月29日 芝公園内六角堂にて凍死

逝年満42歳3ヶ月

・葬儀

昭和7年1月30日 身元不明者として桐ケ谷火葬場で荼毘に付される

のちに身元判明

昭和7年2月18日 告別式 於芝増上寺別院 源興院

総代 徳田秋声 三上於菟吉 久保田万太郎 広川松五郎

    室尾犀星 鈴木氏亨


(参考文献)久世光彦の「旅ゆけば」を引けば、「群像」9月号に載っている西村賢太の「どうで死ぬ身の一踊り」を読んで、凄い小説だった、私の体の揺れが止まらなかった、と述べている。いまどき珍しい「私小説」であり、しかも「私小説」の極北と言っていい、徹底的に異常な日常が綿密過ぎるほど綿密に描かれている、と続けている。


この人は37、8で、かなり以前から「藤澤淸造」という、いまでは誰も知らない大正期の小説家の全集全5巻を世に出すことに心血を注ぎ続けている。しかも、まったく自費だというから信じられない。当然、借金の山らしい。・・・大正11年の「根津権現裏」という長編が、その私生活を克明に描いて僅かに評価されたが、西村賢太の「一夜」「どうで死ぬ身の一踊り」の二作は、その藤澤淸造が墓から蘇って話の続きをしているように、暗く情けなく、嫌になるくらい辛い作品なのだ。 


貧困に喘ぎ、同棲している女に暴力を揮い、愛想を尽かした女が逃げ出すと、その前に土下座して涙を零して復縁を哀願する―西村のその姿は「根津権現裏」の藤澤淸造に瓜二つである。・・・何にしても凄い。次期の「芥川賞」がこれ以外の作品に与えられたら世の中は「どうで死ぬ身の一踊り」よりも真っ暗闇だ。何はともあれ、欺されたと思って読んでもらいたい。あまりに暗くて、惨めで、だから可笑しくて、
稲光が目の前に閃く。


また(参考文献)坪内祐三は「解説」で、次のように述べている。「どうで死ぬ身の一踊り」が芥川賞候補になった時、多くの選衡委員たちが、藤澤清造一体だれ? 作者は何故こんなマイナーな作家に入れ込むの? と自分たちの無知をさらしながら揶揄的な口調で批判していた。いや無知はかまわない。問題なのはその自らの無知を顧みようとしないことだ。無知に開きなおっていることだ(こんな連中が選衡委員なら芥川賞も終わりだなと思った)、とまで述べている。


本のカバー裏には、以下のようにあります。

悲運の最期に散った、大正期の私小説家・藤澤淸造。その作品と人物像に魅かれ、すがりつく男の現世における魂の方向は、惨めながらも強靭な捨身の意志を伴うものであった。――同人誌時代の処女作「墓前生活」、商業誌初登場作の「一夜」を併録した、問題の創作集。賛否と好悪が明確に分かれる本書には、現代史小説の旗手・西村賢太の文学的原点があまねく指示されている。


西村賢太:

1967(昭和42)年東京生まれ。中卒。2007(平成19)年「暗渠の宿」で野間文芸新人賞、11年「苦役列車」で芥川賞を受賞。刊行準備中の「藤澤淸造全集」(全五巻別巻二)を個人編輯。文庫版「根津権現裏」「藤澤淸造短篇集」を監修。著書に「どうでえ死ぬ身の一踊り」「二度はゆけぬ町の地図」「小銭をかぞうえる」「廃疾かかえて」「随筆集 一私小説書きの弁」「日ともいない春」「寒灯」「西村賢太対話集」「随筆集 一日」ほか


目次

墓前生活

どうで死ぬ身の一踊り

一夜

(参考文献)久世光彦・坪内祐三

解説 稲垣潤一


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