新藤兼人監督の「裸の島」を観た! | とんとん・にっき

新藤兼人監督の「裸の島」を観た!


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ここ1ヶ月、映画館へ映画を観に行っていませんが、映画はDVDを借りて観たり、TVで放映されたものをブルーレイで録画してあったものを、思い出したように取り出して観たりしています。その数、10数本になります。そのうちの1本、去年の8月12日にNHKBSプレミアムで放映された、新藤兼人監督の代表作「裸の島」について書いておきます。


5月29日に100歳で亡くなった新藤兼人監督、その遺骨は代表作「裸の島」を撮影した広島県三原市の宿祢(すくね)島に散骨されたという。「裸の島」に主演し、94年に亡くなった妻であり女優であった乙羽信子さんの遺骨の半分も宿祢島に撒かれているという。新藤監督と乙羽さんは、映画を撮った思い出の地である宿祢島で眠っています。


「裸の島」は1960年(昭和35年)に撮影し公開されました。資金難による「近代映画協会」の解散記念作品として企画・製作されました。「近代映画協会」とは1950年(昭和25年)、松竹を退社した当時脚本家の新藤兼人、映画監督の吉村公三郎、俳優の殿山泰司らが設立した映画会社でした。「裸の島」は、制作費500万円、スタッフ13人、役者2人というギリギリの制作でした。しかし、翌1961年(昭和36年)の第2回モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞するなど、海外で数々の賞を受賞したことで、各国からの引き合いが相次ぎ、会社設立以来の累積赤字を解消することができたという。


瀬戸内海に浮かぶ小さな島。この島に夫婦(殿山泰司、乙羽信子)と男児2人の4人家族、1世帯だけが住んでいます。夫婦は島の斜面を耕して、麦や野菜を作っています。島には水がないため、離れた本島まで水を汲みに行き、小舟で運び、斜面を一歩一歩担ぎ上げ、その水を畑に撒きます。この夫婦には、同じことの繰り返し、過酷な毎日が続きます。ある時、乙羽信子が急斜面でつまづいて、桶の水をこぼしてしまいます。それを見た殿山泰司は、なにも言わずに乙羽の顔を平手で叩きます。


ある日、次男が釣り上げた大きな鯛を持って、尾道にまで売りに行きます。魚屋が買ってくれ、久しぶりに家族は、街の食堂で外食することができ、日用品などを買うことが出来ました。家族は、千光寺山にロープウェイで登り、船が行き来する瀬戸内海を眺めたりもします。2年生になる長男は、夫婦が水を汲みに行く本島の学校へ通っています。その後、長男が高熱を出し、夫婦は本島へ医者を探しに行きますが、離島の悲しさ、医者が島に着いたときには子供は亡くなっていました。お通夜、葬式には先生や友達が舟に乗って来てくれます。子供は、海の見える小高い丘に埋葬されます。


そうしたことがあったにもかかわらず、夫婦の日々の暮らしは、小舟で水を運び、斜面の畑に水を撒くという日課は、まったく変わらず続いていきます。ある日突然乙羽は、畑の作物を引きちぎり、畑に突っ伏して畑を叩きながら泣き出します。殿山は黙ってその姿を見ているだけでした。泣いても叫んでも、夫婦はこの土と共に暮らしていかなければならないのです。しばらくすると乙羽は立ち上がり、何ごともなかったように桶に残った水を畑に撒き続けます。


この映画の出演者は、通常の映画のようなセリフがまったくありません。殿山が子供を「よいしょ」と抱き上げるとか、乙羽の泣き声を聞くことができるだけです。瀬戸内の小島に住む夫婦には、繰り返しの日々の暮らしの中では、会話はほとんど必要なかったのかもしれません。それにしても、離島に住むということは、あまりにも辛い毎日の繰り返しです。


この映画を観て、若い頃読んだアルベール・カミュの「シジフォスの神話」を思い出します。ギリシャ神話にでてくる「シーシュポスの岩」のことで、「徒労」を意味するようです。内容はほとんど覚えていないので、その意味するところを以下に引用しておきます。


「ギリシャ神話に登場するシジフォスは尖った山の頂に岩を上げるようギリシャの神に命じられるが、上げても上げても岩は下に転げ落ちる。これが人間が置かれた現実でもある。理性的に考えれば無意味なことを、シジフォスと同じように人間は生きるために必死でやらなければならないのだ。」(ミネルバのフクロウ:「シジフォスの神話」より引用)


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「裸の島」goo映画