松家仁之の「火山のふもとで」を読んだ! | とんとん・にっき

松家仁之の「火山のふもとで」を読んだ!

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松家仁之の「火山のふもとで」を読みました。この小説を知り、読むきっかけとなったのは、松浦寿輝の「文芸時評」 (朝日新聞:2012年6月27日)でした。「主人公の『ぼく』は設計を志す若者で、尊敬する建築家の事務所に採用されるという幸運を得て、才能豊かな先輩たち、魅力的な女性たちと出会う」として、「吉村順三、丹下健三、野上弥生子といった実在の人物を想起させる趣向が、虚構と現実との間に回路を開く効果を上げ、終始読者の興味を繋ぎとめる」と続けます。こう書かれると、建築家としては是が非でも読んでみたくなるというもの、すかさずアマゾンに頼んで、一気に読み終わりました。


目次には、「先生は、小さな声で呟くように、建築史に残る建物を生み出す。生を豊かにする空間とは? 浅間山のふもとの山荘で、設計コンペの戦いとロマンスの時が静かに深々と刻まれる――。超大型新人デビュー!」と書かれており、デビュー作・650枚一挙掲載とあります。650枚というと、僕ら素人にはよく分からないのですが、雑誌「新潮」 の2段組、200ページ弱というもの、単行本にしたらどの位になるんでしょう。たまたま新潮2012年4月号の、柴崎友香の「わたしがいなかった街で」は、目次には350枚一挙掲載とあり、やはり2段組110ページでした。なんとその倍です、「火山のふもとで」は。


巻末の「主要参考文献」、邦訳されたものでは、「北欧の建築」、「アスプルンドの建築1885-1940」、「アスプルンドの建築 北欧近代建築の黎明」、「ライトの生涯」、「知られざるフランク・ロイド・ライト」、「未完の建築家 フランク・ロイド・ライト」、「ライト 仮面の生涯」、等々。著者の松家は、これらの文献を相当読みこなしていること、そしてそれが尊敬する先生の言葉となって随所に出てきます。


例えば、「大正12年の関東大震災は私が中学2年生のときであった。身をもって経験した倒壊する建物、大火災、焼け跡のバラック、照度となった東京の街が再建されていく姿から、建築というものを強烈に印象づけられたのであった。その後新築間もない、ライトの帝国ホテルに食事に連れて行かれ、その建物の素晴らしさに心打たれたことも今もって忘れられない」。これは「吉村順三作品集1941-1978」の「あとがき」に書かれている吉村順三の文章です。


あるいは、「楡の林の中に建っている。周囲の樹木が非常に大きいので居住階を2階とし、このような形の建物になった。2階の床面から美しい樹幹を見ることが出来る。1個のボイラーが真冬でも家中を快適に暖めてくれる。60cmのグリッドは小さな家のプランに便利であると同時に特殊な、居心地のよい空間の感じを創っている。屋根の露台は樹間の楽しい食堂ともなり、落葉するとここから浅間山の噴煙を眺めることが出来る。庭につづく広いベランダは夏の間非常によく使われる」。これは同じく「吉村順三作品集1941-1978」の「軽井沢の山荘A」を解説した箇所の吉村順三の文章です。



ぼく・坂西徹が村井設計事務所に入ったのは1982年、村井俊輔はすでに70代半ばでした。新卒の学生の採用は1979年で、新たな採用はもうないだろうといわれていました。4年生になったぼくは、大学院の残る気もなく、ゼネコンの設計部へも、アトリエ系の事務所にも行くつもりはなかったが、ただ一人、尊敬する建築家がいました。64年の東京オリンピックや、70年の万国博覧会など、日本を象徴するような舞台で設計をした人ではない。口数が少なく、本業以外には手を出さなかったから、建築に強い興味を持つ人以外に、その名を知る機会はなかったろう。その人は村井俊輔でした。


60年代の終わりから70年代の初め、村井俊輔はむしろアメリカで知られていたかもしれない。アメリカ東部屈指の資産家の邸宅(注1)を設計します。数ヶ月の間アメリカ東部に滞在し、現場の監理をしました。大戦前から2年にわたって、フランク・ロイド・ライト(注2)の設計事務所に弟子として勤めて以来のアメリカ滞在でした。新たな邸宅の依頼も「大邸宅ばかりやっていたらスケールの感覚がおかしくなってしまうからね」というのが本当の理由でした。60年代に入ってから数年間、国のかかわる大規模な仕事(注3)を依嘱されたが、設計の方針を巡り担当部署と対立し、屈する思いを味わわされます。先生はこれを期に、公共建築の設計には手を出さなくなります。


注1:ポカンティコヒルの家/ロックフェラー邸 1974年

注2:レーモンド事務所 1940年春渡米

    1941年帰国、太平洋戦争勃発の日に事務所開設

注3:新宮殿基本設計 1966年


大学4年の秋になって追い詰められたぼくは、ほとんど可能性のない、しかし自分の一番の望みに向けて足を踏み出します。村井設計事務所で働かせてもらえないだろうかと尋ねる手紙を書き、投函します。一週間ほどして、事務長の井口さんから電話があり、採用の予定はないが、短い時間なら先生が会ってくれるという。翌日、北青山の事務所を訪ね、所長室で先生と話をします。一週間後にまた井口さんから、仮採用が決まったと、電話がありました。翌日事務所を訪れると、先生は「ここにいる限りは、良く弁キョして、いい仕事をしてください」と言いました。


年が明けてから、大学の授業がある日をのぞいた月、水、土の3日間、朝から事務所に通うようになります。設計室のいちばん隅に机をあてがわれます。じっと座っている暇もなく、隣の席の教育係の内田さんから雑用を次々と申しつけられ、なんとか仕事を覚えてゆく日が続きます。雑用といってもその仕事にはすべて理由があり、可能な限り合理的に動かされていました。80年代早々の、どこか騒がしい、風を切るような建築の世界で、先生の作品は日本的な伝統の流れをくむ懐かしいものと評価されがちでした。しかし、事務所の運営にも先生の建築にも、日本的とはいいがたい、合理性が貫かれていました。先生がつくる空間がしみじみと落ちついたものに感じられるとしたら、そのしみじみには理由がありました。



春になり、4月1日の夜、事務所近くのイタリアンレストランで、ぼくの入所を祝う会が開かれます。最後に出てきた「コ」の字型の白い大きなケーキ、北浅間の「夏の家」をかたどったものでした。もうひとつのケーキは、ひとかかえもあるモンブラン、山肌はパレットナイフで整えられ、頂上から白い粉佐藤が振りかけられていました。雪の残る春の浅間山でした。その1ヶ月後、ラジオで浅間山の噴火のニュースを聞きました。1973年以来、およそ10年ぶりの噴火でした。


北青山の住宅街の見落としそうな路地に、村井設計事務所はひっそりとあります。コンクリート造の一軒家で、軒下に3台分の駐車スペースがあります。毎年、7月の終わりから9月半ばまで、北青山の事務所は開店休業状態になります。北浅間の古い別荘地、通称青栗村にある「夏の家」へ、事務所機能が移転するからです。村井設計事務所は先生と経理担当を含め13人のメンバーで、貴人の建築家が主宰する設計事務所としてはそこそこの規模だが、戦後日本の建築しに名を残す設計事務所としては、むしろ小さい方です。先生は事務所の規模に合わせて仕事を選び、気乗りのしないものについては丁寧に断って、拡大の機会を淡々とやり過ごしてきました。


村井山荘が1956年に建てられたときは、先生夫妻が夏の避暑に使うための小屋でしかなかったものが、82年までの4半世紀で6度の増改築が繰り返され、5倍以上の大きさになっていました。「一昨日の晩、山口さんのところに泥棒がはいったそうだ」と先生は言う。山口玄一郎は先生の美校時代の同級生で、アトリエも自邸も別荘もすべて先生の設計で、青栗村で唯一、行き来のある人でした。事務長の井口さんは国立現代図書館のコンペについてベテランふたりと話し始めます。村井設計事務所にとっては10年ぶりの使命コンペの参加でした。11月末の提出に向けて設計案を詰めてゆくことが、今年の夏の家での最大の課題でした。ふたりはそれぞれ20年以上も先生のもとで働いています。


内田さんは平面図よりも断面図の人、小林さんは動線にうるさくこだわる平面図の人でした。30代半ばの内田さんはディテールのセンスが良く、先生も家具について格別の信頼をおいていた。村井設計事務所を、先生の個人事務所ではなく、村井俊輔の理念を受け継ぎ、掲げながら、世代交代が可能な組織に切り替えてゆくのが井口さんの年来の希望で、河原崎、小林のふたりをその牽引役にしようとしていました。井口さんの頭には、フランク・ロイド・ライトの「タリアセン」がありました。そもそも夏の家をスタートさせたのもタリアセンの影響に違いなかった、と井口さんは言います。


中学3年のとき、先生は関東大震災を経験します。実家の和菓子屋は最小の被害ですんだものの、東京の壊滅的なありさまは生涯忘れられない光景となります。震災の翌年、先生は両親に連れられて帝国ホテルで食事をします。建築家になりたいと意識するようになったのは、この日がきっかけでした。美校を卒業後、ライトの弟子だった日本人建築家を訪ねて紹介状を書いてもらい、“アプレンティス”として働きたいと手紙を出したのは1939年のことでした。数ヶ月後、「受け入れる」と書かれた絵はがきがライトから届き、横浜港からアメリカに向けて出港します。アリゾナで、そしてウィスコンシンで、先生は晩年のライトと生活を共にしながら、建築家としての修業を積みます。



しかし、41年12月、パールハーバーの奇襲作戦が決行され、4月の終わりには仲間と別れてニューヨークに移動、アメリカに残っていた外交官や留学生、ビジネスマンなどを帰国させる日米交換船の乗客となります。この航海中にのちの友人となる哲学者、梶木道生と出会うことになります。帰国から3ヶ月後の1942年11月、麹町のビルの一室で、美校の後輩である井口さんとふたりきりで、村井設計事務所はスタートしました。今回の国立現代図書館については、設計競技になるけど、ぜひ参加してくれないだろうかと文部大臣から非公式の打診がありました。


民間から選ばれた文部大臣は、同じ日米交換船に乗り合わせ、その後長いつき合いのある哲学者の梶木道生でした。内田さんの推測によると、表向きは競技設計だが、文部大臣は先生への特命設計に等しかったのではないか、という。しかし、6月下旬、船山圭一建築研究所もコンペの指名候補者に入っていることが明らかになります。船山は先生と同じ美校の3年後輩でした。ノアの方舟をイメージさせる巨大な建築で、ステンレス・スチールが銀色に輝く外観の西原カトデラル聖ペテロ大聖堂で世間の注目を集めました。大きな公共建築をつぎつぎとに落札してきた船山がコンペに入ってくるからには、すんなりと先生に決まるとは考えられない状況になります。


月、水、金の午後は、麻里子とぼくとで、旧軽井沢まで買い出しに出かけます。森を離れて里におりてゆくのは、夏の家にはない開放感があります。2階の設計室にあがって、井口さんに用事がないかを聞いてから、麻里子は誰にともなく「行ってきます」と声をかけます。雪子が「いってらっしゃい」と小さな通る声で言って、ぼくたちを目で見送ります。雪子にかなわないと思うのは、突拍子もない注文を出すクライアントとの我慢くらべに負けないところでした。受け身に見えても、最後に自分のプランをふわりと通してしまいます。クライアントは雪子と一度じっくり話をするだけで、やすやすと雪子を信頼してしまいます。


村井麻里子は、音大を卒業してから職につかず、ふだんは代々木の実家で暮らしていた。父親は先生の弟で、ほんらいなら先生が継ぐはずだった本郷の古い和菓子屋を営んでいた。母親は自宅で茶道を教えています。麻里子は夏の家の期間だけのアルバイトで、東京に残っている経理担当の吉永さんのかわりに、会計事務や雑事全般を引き受けています。吉永さんとは仕事が早く正確で丁寧なところはよく似ています。歯並びのいい白い歯をみせてよく笑い、明るく屈託がなかった。旧軽井沢には村井家の古い別荘があり、週末はそこへ帰って行きます。


ぼくの教育係でもある内田さんの説明はいつも具体的でわかりやすく、なぜそうなのか理屈が必ずついていて、頭にするりと入ってきます。河原崎さんと小林さんの人物評も、建築家としてのふたりの資質をよく観察したもので、すぐに腑に落ちました。ところが麻里子をめぐる注意事項だけは、霧がかかって見通しが悪い部分が残っていて、それがずっと気になっていました。「先生の姪だからというわけじゃないけど、手を出しちゃだめだよ。この事務所は所内恋愛は禁止だからね。・・・小さい事務所だからそうでもしないと仕事も人間関係がややこしくなって大変なんだ」と内田さんは言う。


「じゃあ、そろそろ」と行って、先生は席を立ちます。国立現代図書館のプレゼンテーションが始まります。小林さんと河原崎さんは一足先に2階の設計室に上がってゆきます。全員が設計室の大テーブルに揃うと、先生も所長室から出てきます。小林プランは、正方形のフロアを積み上げたもので、書棚はゆるやかなS字カーブを描いていて、正方形の空間に大きな川が流れているようでした。河原崎プランは、敷地いっぱいに接して円筒形の図書館が建ち、壁側から中心に向かって同心円状の4重の書架を抱えています。先生から細かい具体的な質問が次々と出てきます。照明や空調計画、床材の選択、機械室や事務室の位置、駐車場のスペースなど、細かい説明と確認が続きます。


この図書館が実現すれば、村井俊輔の80年代の仕事を画するものとなるのは間違いないと思われた。しかし、70歳の半ばになって、日本の伝統的な建築の文脈から離れ、かぎりなくモダンに近づいたのはなぜなのか。それは日米開戦をはさんだわずかな期間、先生が師事したフランク・ロイド・ライトの影響です。現代図書館のコンペで村井設計事務所が一等になれば、内田さんは当面事務所にとどまることになる。一等を逃せば、年明けにも辞めてしまうかもしれない。ほぼ仕上がった現代図書館のプランをみると、これを凌ぐものがどこにあるのだろうと、ぼくにはそう思えた。



旧軽井沢で買い物を終え、クルマに乗り込んだとき、麻里子が前を向いたまま突然、「たぶん、夏の家が終わるころ、先生があたなに声をかけるんじゃないかと思う」と言った。「先生が父を相談して、父は母と相談して、つまり村井の兄弟と私の両親が揃って、あなたとわたしがいずれ結婚したらどうかって思ってるらしいの」。考えもしていなかったことを言われると、思考は行き止まり、そこで停止する。「前から聞いていたことなのか」と聞くと、「この前、内田さんから聞いた」と言う。内田さんは誰から聞いたのか、先生があるところでその話をしたからだという。その人とは誰なのか。「先生が週末のたびにでかけていくところよ」。

年は麻里子が3つ上。ぼくは大学を出たばかりで何の実績もない。本郷の古い和菓子屋のひとり娘とサラリーマン家庭の次男。世間的な常識で考えれば、誰が見ても不釣り合いだ。村井家の長男である先生には子どもがいない。先生の村井姓も、弟の村井姓も、このままではともに消えていってしまう。建築家である村井俊輔と、和菓子屋の主人である村井知二の、それぞれの跡継ぎになるような男を婿養子に迎えたいと考えているのなら、ぼくの建築家としての未来はどんな変化が起こりうるのだろう。和菓子屋の実質的な運営は麻里子にまかせて、建築の仕事を続ければいい――ということになるのか。


先生は「粒良野経由で、小諸の温泉にでも行ってみよう」と言います。粒良野経由というからには藤沢さんの農園に立ち寄るつもりだろうか。追分に向かう途中で、先生はいびきをかきはじめます。休みなく仕事をして、あとはわれわれが最終版の図面と模型を用意するだけでした。追分の信号でクルマはとまった。いびきがいっそう大きく聞こえた。これは居眠りではなく、意識を失っている。病院に連れていかなければ。とりあえず藤沢さんの家に行き、救急車を呼んでもらう。午後8時を過ぎて、先生は集中治療室に入っていた。医師が廊下に座っていたぼくと藤沢さんを交互に見て「奥様でいらっしゃいますか」と聞きます。藤沢さんは「妻ではありません」といったあと、一瞬ためらいながら「パートナーです」とはっきりと言いました。


倒れて1ヶ月が過ぎても、先生は集中治療室から出ることができなかった。夫人は代々木上原の自宅で小児科医院を開業しているので、長く東京を離れるわけにはいかなかったので、次第に負担の多い日帰りの旅は見合わせるようになった。週末の午後、ぼくといっしょに先生を見舞っていた麻里子が、毎週代々木上原を訪ねて先生の容体を伝えることになった。何度目かの訪問のとき、玄関の扉を開くと満面の笑みをたたえた夫人が、弾むような声で出迎えた。麻里子は次の週から仕事を理由に、電話での報告に切り替えます。集中治療室での面会は原則として家族だけでしたが、夫人が東京にとどまるようになると、藤沢さんは麻里子の父からの依頼もあり、担当医の許可を得て、3日にあげず先生を訪ねるようになった。


11月25日、国立現代図書館の設計競技がおこなわれ、一等になったのは、船山圭一建築研究所のプランだった。船山案は、小型の分厚い聖書を真ん中に開き、立てて置いたようなかたちでした。視線を上へ上へと垂直に誘うような船山らしいフォルムでした。自分の立場や好みをすべて差し引いても、依然として先生のプランが船山圭一のプランをあらゆる意味で凌いでいると、ぼくには思われました。しかし、先生が倒れた痛手があまりにも大きいままだったので、コンペに敗れたことへの落胆を誰も口にしませんでした。



82年の10月半ばに先生は倒れ、長野の病院の集中治療室を出られないまま、クリスマスが近づいていたが、年末には一般病棟の個室に移った。年があけて1月の末、都内の病院に転院が決まった。東京にもどるときは、先生のクルマを私が運転し、夫人が後部座席で先生に付き添い、助手席には麻里子が座った。春分の日を迎える前に退院か決まり、先生のクルマで代々木上原の自宅へと送った。麻里子は1日おきに先生を訪ねた。先生が自宅に戻ってまもないころ、浅間山が大きな地鳴りを響かせながら噴火した。ニュース画像で火口から火柱が立っているのが見えました。自宅での先生の様子を伝えると、藤沢さんは一転して沈んだ声になった。「わたしは電話も掛けられないし、手紙もはばかれるけど」といい、「俊輔さんは浅間の噴火を知ってるの?」と聞きます。


初夏になった。先生が不在のまま事務所の仕事は続いていました。そんなある日、先生は突然、麻里子の運転するクルマで事務所にやってきました。内田さんが車椅子のうしろを、私が車椅子の前を持ち上げて、そのまま2階の所長室まで運び上げることになった。先生は所長室に入ると、机の左の引き出しから白い封筒を取り出して、机の上に置きます。井口さんは、白い封筒から便箋を出して無言で読み始めた。「たしかに、拝読しました」とだけ言って深々と頭を下げた。先生はふたたび私と内田さんに車椅子ごと運ばれ、麻里子の運転するクルマに戻った。12人の所員は全員、声をかけあうこともなく外に出て、先生を見送った。先生は窓越しに、所員に向かって左手をあげた。


先生の手紙は、ちょうど1年前、夏の家に出発する前日に書かれたものでした。「この手紙は、私が死んだり倒れたりした場合、事務所をどうすればいいのかについて、私の考えとお願いを書いたものです」とはじまり、きわめて具体的な内容でした。村井設計事務所は期限を区切って仕事を継続し、できれば2年以内に閉じてほしいこと。河原崎、小林のふたりであらたな事務所を開き、村井設計事務所のメンテナンス業務を引き継いでもらいたいこと。事務所の開設費用、所員の退職金など、必要な経費については、事務所の土地と建物の売却によってまかなってほしいこと。閉所に着手してから1年間は、所員全員の給与を満額保証してほしいこと・・・。


村井設計事務所は、その日から2年あまりののちに、事実上閉じることになった。先生の意向にほぼ沿うかたちで、それぞれの所員が身の振り方を選んだ。河原崎さんと小林さんは、共同で設計事務所をスタアートさせた。笹井さんはその事務所に加わることになった。雪子は大手ゼネコンが解説する建築専門のギャラリーに、学芸員として採用された。内田さんは、単身デンマークに渡り、3年後にデンマーク人の女性を連れて帰国すると個人の設計事務所をスタートさせた。


麻里子は先生が倒れてからアルバイトを辞めていた。得意先の子弟にピアノを教えながら、和菓子屋を手伝い、先生の身の回りの世話をした。84年の春、麻里子は、小学校から高校まで同窓だったおない年の男と結婚することになったと知らせてきた。麻里子の結婚式は、先生が20年前に設計した代官山のスカンジナビア文化会館で行われた。事務所からは井口さんと雪子のふたりが招かれた。先生は車椅子に乗って出席した。


麻里子の式があった年の暮れ、私は井口さんの紹介で村井設計事務所OBの開いている小さな設計事務所に入った。3年目に独立し、27歳のときに自分の設計事務所をスタートさせた。麻里子はすでに母親になっていた。しばらく前から再入院していた先生が、肺炎を悪化させ、病院で息をひきとった。85年1月21日のことだった。藤沢さんは、通夜にも告別式にも姿を現わさなかった。



「夏の家」の前に私は立っていた。29年前の夏、私は始めてここにやってきた。青栗村の森は、いっそう鬱蒼としていた。鴫原麻里子から預かっていた鍵をポケットからとりだし、玄関を開けた。長命だった麻里子の父が今年の春に亡くなり、相続のため夏の家を手放さざるをえなくなったのだ。先生が亡くなると麻里子の父が買い取ったものの、旧軽の山荘があったため利用する機会も少なく、荒れるがままになっていた。麻里子からまず妻に夏の家を引き取ってくれないだろうかと打診があった。懐かしい記憶に引かれるようにして、私は事務所の共同経営者でもある妻とふたり、夏の家にやってきたのだ。


暖炉の脇の棚に、広口のガラス瓶が光っていた。ガラス瓶にはちびて仕えなくなった鉛筆がぎっしりと詰まっていた。「壮観ね」「この瓶のこと、すっかり忘れてたな」「あなたの鉛筆も、わたしの鉛筆も、このなかに入ってる」、横に立っている雪子が言った。アクリルケースの埃を払ってから、国立現代図書館の白い模型を見た。これほど精密で堅牢な模型はあとにも先にも見たことがない。内田さんと私と雪子が、さほど時間をかけずにこの模型を完成させることができたのは、腕と手首、手のひらと指先の連携が理想的に安定し、視力にもまったく問題がなく、けれど本人たちはそのことになんの自覚もないという、まぎれもない若さがあったからだ、といまになって思う。


29年前、事務所が一体になって取り組み、コンペで一等となることを信じて疑わなかったプランだった。模型のまえでしばらく茫然と立ったまま、私は抑えようもなく動きはじめたものに気づいていた。それは、いまここにある、朽ちかけた建物に向けられていた。私が建築家としての歩みをスタートさせたこの建物は、それ以前の長い増改築の歴史を含めて、先生とそのまわりに集まってきたおおくの人びとの記憶とともにここまで生命をつないできた。この夏の家を“きみ”があたらしくすればいい。澱んで動かなくなっている現実に、息を吹き込めばいい。建築は芸術じゃない、現実そのものだよ――先生からいつか聞いた言葉が、そのときの声のまま、私の耳によみがえってくる。


階段を下りて、リビングの暖炉の前に立つ。暖炉脇に積んである薪を炉床に井桁に積んでいく。先生に教えてもらった積みかただ。またたくまに火が薪をなめてよく。薪がパチパチと音を立てる様子を見て、雪子は開け放っていた窓を閉めはじめた。どこからか鳥の鳴き声が聞こえてきた。記憶に残る声だった。初めての夏に、毎日のように聞いた声。雪子が窓を閉めると、鳥の声は聞こえなくなった。「先生の夏の家を、ぼくたちが引き取るなんて、考えもしなかったな」と私が言うと、「そう。わたしは考えないでもなかったな」と雪子は言います。「どうして?」と聞くと「・・・なんとなくね」と答えます。古い薪を燃やしきるまで私たちは言葉もなく暖炉の前にすわっていた。薪が燃え立ち、燃え落ちてゆくのを、飽きもせずにながめ、その音を聞いていた。


松浦寿輝は(一定の留保は付けながらも)、以下のようにいう。松家仁之「火山のふもと」は、「新人」の「デビュー作」とは思えない完成度を示す長篇だ。文章の清潔と'典雅、物語展開の見事に統御された緩急の呼吸、過不足名のない描写の節度と鮮烈、それぞれくっきりとした輪郭で造形された登場人物たちの粒立った個性。ここには、さしあたり人が小説に求めるすべてがあるとも言える。・・・松家氏の「夜の樹」は1979年に文學界新人賞の佳作になっており、そのときの阿部昭の選評に「作者はまだ20歳だという。なにもそう急いで小説を書くことはないと私など思うのだが」とある。松家氏はこの忠告を結果的に受け入れ、以後33年の人生経験の円熟を「火山のふもとで」に結晶させた。あたかも事務所見習いの「ぼく」が、29年を経てひとかどの建築家になりおおせたように、とでもいおうか。



新潮社「火山のふもとで」(立ち読み)


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