森美術館で「メタボリズムの未来都市展」を観た! | とんとん・にっき

森美術館で「メタボリズムの未来都市展」を観た!


展覧会場で、流れていた映像に釘付けになりました。話しているのは建築評論家の川添登。剣持勇が海外から要請されて持ち帰ったデザイン会議、日本でなにかできないか、という話。その話を聞いた丹下健三は、自分は海外へ教えに行くことが決まっているから、お前が面倒みろと川添に言い置いて、黒川記章を手伝いにして、さっさと海外へ行ってしまいます。黒川から話を聞くと、出る話はあまりにも未来志向で、奇想天外な計画ばかりでした。菊竹請訓と話していると、生物学用語で新陳代謝ということになってきました。菊竹は真面目だから英語の辞書を引いて、それが「メタボリズム」だと言います。


じゃあ、それでいこうということになりました。その頃群造形を提唱していた大高正人と槇文彦が加わります。1960年に東京で開催された世界デザイン会議に、川添登、大高正人、菊竹清訓、槇文彦、黒川記章らは「メタボリズム宣言」を発表しました。固定した建築や都市像ではなく、空間や設備を取り替えながら、生物のように次々と姿を変え増殖し、新陳代謝していくという都市や建築のイメージです。1960年といえば、戦争で荒廃した日本がやっと復興し、高度経済成長期へと移行した時代です。世界デザイン会議のために、建築ではルイス・カーンが、来日したことはよく知られています。


1960年5月7日から16日まで、27カ国、二百数十名のデザイナー、建築家を集めて東京・産経ホールなどで開催された。勝見勝、坂倉準三、柳宗理、亀倉雄策、丹下健三らが中心となり、デザインの分野の違いを超えて討論を行ない、世界のデザイン界との国際交流の場を生み出そうという意図から開催された大規模な会議。グラフィック、インダストリアル、環境の三分野に分かれて討議が進められた。・・・この会議を契機として「メタボリズム・グループ」が結成される。ここで採択された東京宣言では、「来るべき時代が、人間の権威ある生活の確立のために現代よりもいっそう力強い人間の想像的活動を必要としていることを確信し、われわれデザイナーに課せられた責任が重大であることを自覚する」と述べられている。(「現代美術用語事典」より)


「メタボリズム運動」は、数少ない日本から発信した建築運動でしたが、一方では楽天的な技術志向とも見られがちでした。展覧会の企画者の一人で「メタボリズム・ネクサス」(オーム社)の著者・八束はじめは、「高度成長期の夢物語ではなく、多面的な国家建設の企ての一つ」と捉えています。つまり、丹下健三を主役に、磯崎新らの動きを含め、戦前の都市計画に始まり、戦災復興計画を経て、70年の日本万国博覧会(大坂万博)で頂点に達する「メタボリズム的なもの」を大きく考えています。(朝日新聞2011年10月12日「メタボリズムは未来を築く?」より)


「メタボリズムの未来都市展」に出された約500点もの作品を観ると、戦前の中国における東京大学の都市計画や、丹下健三の「大東亜共栄記念営造物」コンペの展示から始まります。これは八束はじめの視点でもあるかと思いますが、やはり疑問に思います。展示の前半はこれでもかと言わんばかりに丹下健三一色です。「広島ピースセンター」に始まり、「東京計画1960」や「築地計画1964」の巨大な展示が続きます。前川國男の「晴海の集合住宅」、大高正人の「広島基町の集合住宅」、なぜか白井晟一の「原爆堂」まであります。続いてメタボリズムグループの川添登、菊竹清訓、槇文彦、黒川紀章、栄久庵憲司のコーナーが続きます。粟津潔のポスターもありました。メンバーではないが磯崎新や、大谷幸夫のコーナーもありました。


こうなると、なんでもかんでも「メタボリズム」です。これでは「狭義のメタボリズム」と「広義のメタボリズム」との区別が不明確です。たしかに戦前から戦後にかけての日本の建築の状況を、全体的に網羅していると思いますし、それらを同時代的に知っているものには、「これは建築の歴史だ」と、妙に「懐かしさ」が込み上げてきたりもします。しかし、これだけ未来志向で、壮大なプロジェクトばかりだと、逆にリアリティが感じられません。


やはり理論と実践では、黒川紀章と菊竹清訓に、どうしても軍配が上がります。下に2人の主要な著書を載せておきます。そうそう、今回、大きく取り上げられていたのは、1956年に浅田孝による「南極観測隊昭和基地」、工場で作り現場で組み立てるというプレハブ建築としてでした。黒川紀章のカプセルは、住宅の機能を一つのカプセルに収めたもの、六本木ヒルズのパブリックスペースに、カプセルの実物が展示してありました。


振り返って考えてみると、メタボリズムとして実現できた建築作品は数えるほどしかありません。「スカイハウス」「中銀カプセルマンション」、大高正人の「坂出人口土地」などだけです。たしかに1970年の日本万国博覧会では、丹下健三のもと、「お祭り広場」や「エキスポ・タワー」等々、様々な試みがなされましたが、それが「メタボリズム」の最後を飾ったと言わざるを得ません。お祭り広場のカプセル住宅にクリストファー・アレグザンダーの「人間都市」、模造紙にコピーした写真を貼り手書きで書いたものが展示されていたのは、歴史の皮肉と言えます。アレグザンダーはこの後、「パタン・ランゲージ」を取りまとめることになります。


最後の「グローバル・メタボリズム」では、丹下健三の「スコピエ都心部再建計画」、槇文彦の「リパブリックポリテクニック」等、都市スケールの大型プロジェクトの紹介もありました。その他、アジアで進行中のプロジェクトも紹介され、メタボリズムがどのように寄与したのか、検証しています。それらとは別に、実現された建築、菊竹の「出雲大社庁の舎」や「東光園ホテル」は素晴らしい建築だし、槇文彦の「代官山ヒルサイドテラス」は都市と建築を見通した見事な作品です。また、ヤノベケンジの「デメロボ」は、大坂万博のお祭り広場から着想したのだという。


先の新聞記事によると、早稲田大学の中川武は「高度成長に支えられた動きで、今とは状況が違う。メタボリズムで元気を、というのは間違いで、批判的に学びつつ、市民や場に密着した小さなものを生かしていく時代だ」と批判したという。建築家の山本理顕は「国の方向に従い、インフラや経済に合わせる建築家を生んだのではないか」と指摘したという。メタボリズムと同調しながら加わらなかった磯崎は、「長い時間の中で捉えることには賛成で、万博までは建築と都市と国家のどれかにかかわることはすべてやることだった。だが万博で未来を見てしまった後はバラバラになった。今、メタボリズムの発想がそのまま復興に役立つとは思えない」と述べています。


1960年、51年前に日本から提唱された建築理論「メタボリズム」、世界で初めてメタボリズムを総括する展覧会が開催されました。こうした斬新な提案や復興への意志が、震災後に勇気と希望を与えるだろうと、主催者側では楽観的に考えているようです。果たしてそうなのか。「メタボリズム、あるいは21世紀の都市や建築のあり方。それらを巡る議論は、世代を超えて新陳代謝を見せ始めている」と、大西若人は言います。


展覧会の構成は、以下の通りです。
Section1 メタボリズムの誕生
Section2 メタボリズムの時代
Section3 空間から環境へ
Section4 グローバル・メタボリズム












建築家たちが夢見た理想の都市像「メタボリズム」を振り返る、初の展覧会
1960年代の日本に、未来の都市像を夢見て新しい思想を生み出した建築家たちがいました。丹下健三に強い影響を受けた、黒川紀章、菊竹清訓、槇文彦といった建築家たちを中心に展開されたその建築運動の名称は「メタボリズム」。生物学用語で「新陳代謝」を意味します。それは、環境にすばやく適応する生き物のように次々と姿を変えながら増殖していく建築や都市のイメージでした。東京湾を横断して伸びていく海上都市、高く延びるビル群を車が走る空中回廊でつないだ都市など、その発想の壮大さには驚かされます。メタボリズムが提唱されたのは、戦争で荒廃した日本が復興し高度経済成長期へと移行した時代です。そこには理想の都市を通じて、よりよいコミュニティをつくろうという思いもありました。この展覧会は世界で初めて、メタボリズムを総括する展覧会になります。日本が大きな転換点に直面している今だからこそ知りたい、建築や都市のヒントが詰まっています。

「森美術館」ホームページ


とんとん・にっき-meta16 「代謝建築論―菊竹請訓 か・かた・かたち」

著者:菊竹請訓

発行:1969年1月

出版社:彰国社
とんとん・にっき-kiku1 「行動建築論 メタボリズムの美学」

著者:黒川紀章
発行:1979年8月
出版社:彰国社





とんとん・にっき-kiku6 「架構 空間 人間―日本万国博覧会建築写真集・資料集」

発行:昭和45年5月1日

編者:第2回日本建築祭実行委員会写真集部会
発行者:第2回日本建築祭実行委員会

発行所:第2回日本建築祭実行委員会事務局