岩手県立美術館で「松本竣介」を観た! | とんとん・にっき

岩手県立美術館で「松本竣介」を観た!


萬鐵五郎の作品を最も多く所蔵しているというので、「岩手県立美術館」で調べたところ、この美術館の中核となるものは、大正時代に活躍した同県花巻市出身の萬鐵五郎、盛岡市で少年期を過ごした松本俊介と、彫刻家・船越保武の3人の作品群だそうです。3人とも僕の好きな作家なので、この美術館へは、いつかは訪ねてみたいと思っています。とは、以前、2009年07月に、このブログに書き込んだ文章です。今から2年前でしたが、念願叶って岩手県立美術館へ先日行ってきたというわけです。


松本竣介の作品で圧巻だったのは、なんといっても神奈川県立近代美術館にある「立てる像」(1942年)でしょう。先日も鎌倉へ行って観てきましたが、図録には次のようにあります。「松本竣介の魅力は、抒情的な表現とその画面に漂うそこはかとない寂寥感ないし孤独感にあるのではないだろうか」と。「立てる像」の背景は、東京・高田馬場のごみ捨て場であるという。この時代の松本の乳白色の色調は、藤田嗣治からの影響があると言われています。生きる上での寂寥感や不安の感じは、人間の生活は、陰影が合ってのことだという人生観が、色濃く反映しています。


松本が、盛岡中学校に入学した13歳の春に、流行性脳脊髄膜炎にかかって聴覚を失い、一切の音を断たれてしまいます。多感な少年にとって、それは想像を絶する辛さだったに違いない。生まれは東京の青山でしたが、父親が林檎酒の醸造を行うため2歳の時に花巻に移ります。その後、貯蓄銀行設立のため、竣介10歳の時に、一家は盛岡に引っ越します。上キョしたのは1929年、竣介17歳の時でした。結婚は1936年、良き伴奏者に恵まれ、新宿区中井にアトリエを持ちます。街で拾った様々なイメージを重層させ、モンタージュ手法で都会風景をさかんに描くようになります。(酒井忠康著:「早世の天才画家」より)


初期の松本の作品は、ルオー風の太い輪郭線が特徴的ですが、それは次第に姿を消し、青色を基調とした透明感のある色面の中に、都会の町並みや人物を独特の細い線で描いた「街シリーズ」が描かれるようになります。実は僕は、松本竣介と言えば初期の暗い画面のものだけしか知らなくて、大きく作風が変化していたことは、岩手へ来るまで知りませんでした。そう言う意味では初期から晩年までに到る松本竣介の作品を収蔵しているという、岩手県立美術館ならではの特徴があり、全体的に松本の作品を観ることができます。松本竣介は、1935(昭和10)年に、36歳の若さで亡くなります。


竣介の親友だった舟越保武は、次のように書いています。「竣介は36歳で死んだ。その生涯は短くとも、絵描き一筋の充実したものであった。竣介の描いた風景は、陽が落ちるときのあの微妙な青の中に沈み込む都会の哀愁がある。たしかな構築の上にただよう詩情がある」(舟越保武:「巨岩と花びら」より)


岩手県立美術館には、「松本竣介・舟越保武展示室」という二人の名を冠した常設展示室があります。





明治45年(1912)4月19日、現在の東京都渋谷区渋谷に生まれる。旧姓佐藤。幼時から岩手県花巻、ついで盛岡で過ごし、大正14年岩手県立盛岡中学校(現・県立盛岡第一高等学校)へ入学する。同学年に舟越保武がいた。入学の年、流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴力を失ったことをきっかけの一つとして画家を志すようになり、昭和4年中学を3年で中退し上京する。太平洋画会研究所選科へ通い、ここで麻生三郎、寺田政明らと交友。10年第5回NOVA展に出品し同人となり、また第22回二科展に《建物》で初入選する。二科展へは18年まで出品を続け、その間、15年第27回展に《都会》他を出品し特待を受け、《画家の像》(第28回)で会友に推挙される他、《立てる像》(第29回)などを発表した。九室会にも参加、会員となる。11年、結婚して松本姓となり、アトリエを綜合工房と名付け、妻禎子と共に、デッサンとエッセイの月刊誌『雑記帳』を創刊する。16年、美術雑誌『みづゑ』1月号の戦争協力を説く座談会記事に反論し、4月号に「生きてゐる画家」を発表する。同年、盛岡の川徳画廊で舟越保武と二人展を開催する。この頃、舟越保武や澤田哲郎らとたびたびグループ展を開催する。18年には、靉光(あいみつ)、麻生三郎、寺田政明ら同志8名で新人画会を結成する。同会は第3回展まで開催した。戦後の21年、「全日本美術家に諮る」の一文を各方面に配付し、美術家組合を提唱し沈滞した美術家の提携再起を促す。22年、新人画会の同人と自由美術家協会に参加する。23年毎日新聞社主催第2回美術団体連合展出品の《彫刻と女》《建物》を制作中に発病し、23年6月8日、東京下落合の自宅で死去した。36歳。


「岩手県立美術館」ホームページ