岩手県立美術館で「萬鐵五郎」を観た! | とんとん・にっき

岩手県立美術館で「萬鐵五郎」を観た!


萬鐵五郎の作品を最も多く所蔵しているというので、「岩手県立美術館」で調べたところ、この美術館の中核となるものは、大正時代に活躍した同県花巻市出身の萬鐵五郎、盛岡市で少年期を過ごした松本俊介と、彫刻家・船越保武の3人の作品群だそうです。3人とも僕の好きな作家なので、この美術館へは、いつかは訪ねてみたいと思っています。とは、以前、2009年07月に、このブログに書き込んだ文章です。今から2年前でしたが、念願叶って岩手県立美術館へ先日行ってきたというわけです。


萬鐵五郎を僕が知ったのは、やはり東京国立近代美術館の「裸体美人」からです。「裸体美人」は、東京美術学校の卒業制作として描かれたものです。モデルは新婚の奥さん、そのデッサンを描き、背景の草原や山は後から合成したと言われています。「草原に寝そべるたおやかな裸婦」は、黒田清輝や東京美術学校の先生世代の好んだ画題でした。しかし、わざわざ赤や緑のけばけばしい原色を用い、真っ黒な鼻の穴や腋毛を描いたのは、萬の反抗心の表れとも言われています。あまりにも大胆すぎたのか、評価は19人中、16番目だった」という話は面白い。その後、東京国立近代美術館「ゴーギャン展」のときに「寝るひと 立つひと もたれるひと」という企画コーナーがあり、「裸体美人」はそのメインの作品として取り上げられていました。


萬鉄五郎は「自画像」が多い画家としても知られています。なかでもドイツ表現主義の影響が指摘される「雲のある自画像」は、よく知られた自画像です。また「赤い目の自画像」は表現主義的な激しい色で、鋭角的な形を用いた構成はイタリア未来派に通じるところがあります。「点描風の自画像」もあり、ここでは取り上げていませんが茶褐色を基調としたモノクロームの画面である「絵を描く自画像」も、キュビスムの造形方法を追求している作品です。


「ボア」とは、当時流行していた毛皮や羽毛でつくられた婦人用の細長い襟巻きのことで、そのボアを頸にゆるく巻き、椅子に腰掛けている女性は、萬の妻よ志です。この作品の特徴はゴッホ風の激しい筆致、背後に浮世絵を張っているのも、ゴッホの「タンギー爺さん」から直接引用したものです。今回初めて、萬の男と女の「裸体画」を観ることができました。明らかに日本人だと分かるデフォルメされた体型です。先日、神奈川県立近代美術館で観た「日傘の裸婦」も、圧倒的な迫力でした。


また、他に、茅ヶ崎時代に本格的に取り組んだという「南画」が何点か出ていました。彼は浦上玉堂論の中で、その作品に接したとき「看者の受けるものは、一つの統一を得たリズムである。筆のリズム、墨のリズム、むろんそれは人のリズムである」、「肝心スキーなどのものに共通する、或るものがある」と述べていて、この言葉は彼自身の水墨画の特色をも的確に言い当てている、という。






明治18年(1885)11月17日、岩手県土沢(現花巻市東和町)に回送問屋を営む萬八十次郎の長男として生まれる。14歳のころ日本画を独習する。16歳のころ、大下藤次郎著の『水彩画の栞』を購読し、水彩画を始め、画家を志すようになる。36年従兄弟とともに上京し、早稲田中学校3年に編入学する。37年宗活禅師の谷中両忘庵に参禅。38年本郷菊坂の白馬会第二研究所に通い始める。39年中学卒業後、宗活禅師一行の布教活動に加わり、アメリカへ渡るが、同年中に帰国。40年東京美術学校西洋画科予備科に入学する。42年浜田よ志と結婚する。44年平井為成、山下鐵之助らの同級生とアブサント会を結成する。45年東京美術学校西洋画科本科を卒業。卒業制作の《裸体美人》が話題をよぶ。本作は、日本フォーヴィスムの先駆的作品と位置付けられる。同年、斎藤与里、岸田劉生らのフュウザン会に参加。第1回展に《女の顔(ボアの女)》等を出品。同会は翌年解散。このころ、同時代のヨーロッパの前衛美術の動向に感応し、実験的な作品を描く。大正3年土沢へ帰郷。制作に専念する。この時期は、キュビスムの造形言語を手がかりに、自画像、静物画、風景画を数多く描き、独自の表現を模索した。5年再び上京。6年第4回二科展に《もたれて立つ人》《静物(筆立てのある静物)》を発表。大きな反響を呼ぶ。この時期、日本美術家協会展、院展洋画部などに精力的に作品を発表する。8年過労と睡眠不足から強度の神経衰弱症となり、神奈川県茅ヶ崎へ転居療養する。第6回二科展に《木の間から見下した町》等4点を出品し、二科会会友となる。10年第3回帝展に《水浴する三人の女》を出品するが落選。このころから南画(文人画)を研究する。11年春陽会創立に客員(のち会員)として参加。日本水彩画会会員となる。12年小林徳三郎らと円鳥会を組織する。会員に、前田寛治、林武、恩地孝四郎らがいた。晩年の油彩の代表作に《羅布かづく人》(大正14年第3回春陽会展)、《水着姿》(昭和2年第5回春陽会展)などがある。昭和2年、結核に肺炎を併発し、5月1日、茅ヶ崎の自宅で死去、41歳。


「岩手県立美術館」ホームページ

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