羽田澄子の「遙かなるふるさと 旅順・大連」を観た! | とんとん・にっき

羽田澄子の「遙かなるふるさと 旅順・大連」を観た!

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5年ほど前からの年上の知り合いで、そう深く付き合っている人ではないのですが、先日顔を合わせたときに突然、「tontonさん、満州生まれだってね」と言い出しました。「あれっ、誰から聞いたの、僕は満州じゃなくて、北京なんですよ」と、自分の生まれを彼に話しました。彼の方は満州生まれで、戦後引き揚げてきます。彼が船で着いたのは佐世保、「いや、僕も船が着いたのは母の実家のある佐世保なんですよ」と僕は言い、なぜか話が盛り上がりました。僕の方からはあまり言うことがないのですが、彼は家族関係や、父親の仕事の関係など、微に入り細に入り話し始め、止まるところを知りません。挙げ句の果てに、満州関係の本のことや映画など、またなかにし礼や池田満寿夫の話など、興味深い話が延々と続きました。


どうも彼の父親は農林省関係の役人で、手広く「麻薬」を扱っていたようで、だから戦争が終わっても敵国人に大事に扱われて、比較的安全に日本に帰れたのだとか。僕は北京生まれで、戦後の生まれですから、彼とはやや事情が異なります。で、やや強引に手渡されてのが、下に載せた2冊の本です。僕は基本的には本は人から借りては読まないのですが、もちろん著者のことも、書かれている内容のこともまったく知りませんが、満州については興味があるので、時間があったら、読んでみようかとも思っています。


そして彼は羽田澄子の「遙かなるふるさと 旅順・大連」についても、「嗚呼 満蒙開拓団」についても熱く語っていました。実は僕は「遙かなるふるさと 旅順・大連」は、前から見ようとは思っていたのですが、その時はまだ観ていませんでした。彼が言ったこともあって、岩波ホールへ観に行ってきました。羽田澄子は、ドキュメンタリー映画では定評があります。羽田澄子は、大正15年(1926年)旧満州の大連で生まれます。1936年に旅順に移り、1942年に旅順の高等女学校を卒業して、東京の自由学園に入学、卒業した年に帰郷した大連で敗戦を迎えます。父親の職業は教師でした。旅順と大連の街はロシアがつくった街で、他の中国の街とはまた違った趣があります。


今回の作品は、まあ、はっきり言って羽田澄子の「極私的旅順・大連」といったドキュメンタリー映画です。従って、あまりにも極私的なので、何らかの旅順・大連関係者以外の人には、それほど思い入れがあるようには思えません。しかし、いつの時代にも歴史に翻弄されるのは一般庶民であることに変わりはありません。岩波ホールはほぼ満員で盛況でしたが、やはり観客はお年寄りがほとんどでした。僕は3.11の東日本大震災には、岩波ホールで遭遇しました。


チラシの裏には、羽田澄子からのメッセージがあります。


「ふるさとへの旅で、歴史の重さを考える」羽田澄子
私は大正15年(1926)中国東北部、旧満州の大連市で生まれました。昭和元年の年です。私が成人するまでの日本は、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と、戦争に明け暮れた時代でした。私はこの間、一時日本でも暮らしましたが、旅順・大連での生活が長く、敗戦は大連で迎えました。19歳でした。そんな私にとって、懐かしい故郷は、多感な時代をすごした、旅順そして大連なのです。しかし、敗戦後、ながく故郷を訪れることはできませんでした。ことに旅順は重要な軍港であって、日中の国交回復後も、長く未開放でした。全面開放されたのは2009年の秋からです。 私は「日中児童の友好交流後援会」が、旅順の全面開放に対応するツアーを企画したことを知って、ツアーに参加し、この映画を作ることが出来たのでした。ツアーのメンバーの多くは、私と同じように旅順を懐かしむ人達で、日露戦争の戦跡、一緒に育った家や学校など、思い出の場所を歩き、記憶をたどるのでした。 しかし、旅順も大連も中国の土地であって、日本が統治していた時代のことを、ただ懐かしく思ってよい土地ではありません。日清・日露戦争、40年にわたる日本の支配、さらに日本の敗戦とその後のソ連の統治、といった複雑な歴史を経ています。私はこのツアーで日本人が知ることのなかった歴史も知ることになったのでした。 いまや旅順も大連も目覚しい発展をとげ、帝政ロシア、続いて日本によって造られた都市の風情は大きく変わっています。そこは日本人が懐かしむ旅順・大連ではなく、活気あふれる中国の旅順・大連。そして明るい中国の人々の姿があるのでした。


以下、とりあえず「goo映画」より引用しておきます。


「遥かなるふるさと 旅順・大連」あらすじ全文

1926年(大正15)年、中国東北部、旧満州の大連市で生まれた羽田澄子は満州事変、日中戦争、太平洋戦争と、日本が戦争に明け暮れた時代に少女期を過ごす。19歳の時に敗戦を大連で迎えた羽田にとって、旅順、大連は懐かしい故郷。しかし、敗戦後長い間、故郷を訪れることはできなかった。ことに重要な軍港だった旅順は、日中交回復後も長い間、未開放だった。2009年にようやく全面開放が実現。これを契機に羽田は、旅順訪問に対応したツアーに参加。参加者の多くは、羽田同様に旅順を懐かしむ人たち。日露戦争の戦跡や育った家、学校など思い出の場所を歩き、記憶を辿る。だが今や旅順も大連も中国の領土。日本統治時代の歴史を懐かしむためにあるのではない。日清・日露戦争、40年に渡る日本の支配、さらに日本の敗戦とその後のソ連の統治といった複雑な歴史を経て、今や旅順も大連も目覚しい発展を遂げ、都市の風情は大きく変わった。そこには日本人が懐かしむ故郷ではなく、活気溢れる中国の姿がある。


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「岩波ホール」公式サイト


とんとん・にっき-man2 「石原莞爾と満州帝国」

新人物文庫

2010年2月7日第1刷発行

編者:「歴史読本」編集部

発行所:株式会社新人物往来社

とんとん・にっき-man1 「阿片王―満州の夜と霧―」

新潮文庫

平成20年8月1日発行

著者:佐野眞一

発行所:株式会社新潮社