岩手県立美術館で「舟越保武」を観た! | とんとん・にっき

岩手県立美術館で「舟越保武」を観た!


僕が、たぶん高校生だった頃、母親の実家の佐世保から、弟と二人で長崎見物に出かけ、「長崎26殉教者記念像」を観ました。長崎駅前から、乗り合いの観光バスに乗って、あちこち長崎の街を回った中の一つだったように思います。その頃は、その作者が舟越保武だったなどとは、気がつくことはありませんでした。なぜかその建築が「日本26聖人殉教者記念館」(1962年)であり、今井兼次の設計だということは分かっていました。舟越保武を知るようになったのは、佐藤忠良と東京美術学校の同級生だったことで、忠良の書くところにしばしば舟越が出てきたことによるものでした。その後、舟越桂の作品から、保武が父親であることも分かってきました。以下に、舟越が亡くなったときに忠良が書いた追悼文の一節を載せておきます。


佐藤忠良といえば、舟越保武が亡くなったときに新聞に寄稿した追悼文(朝日新聞朝刊:2002年2月7日)が今でも印象に残っています。「1934年に東京美術学校の彫刻科に入った時に同じ教室に彼がいた。どちらも22歳。『武さん』『忠さん』と呼び合い、あいさつがわりに悪口をいいあう親友だった」。「彼は昔からキリスト教徒的な下地があったのか、気遣いの優しい男だった。わたしが休みで郷里の札幌に帰る時、彼は先に帰郷していた盛岡の駅で、汽車を待ってくれたりした。なにを話すでもなく窓から手を振って別れるだけなんだが、プラットホームにぽつんと立っていてくれた姿を今でも印象的に思い出す」という箇所は、何度読んでも胸を締め付けられます。


1912(大正元)年に岩手県一戸街に生まれた舟越保武は、高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に誘発されて彫刻家を目指します。東京美術学校彫刻科に学び、同級の忠良と共に、卒業後、新制作協会彫刻部を創設など、精力的な活動を繰り広げます。大理石彫刻では、石肌を生かした優美な女性像により、わが国の石彫の第一人者として独自の境地を築きました。1950年、38歳で洗礼を受けてからは、「長崎26殉教者祈念像」や聖女像の制作など、キリスト教信仰によって、作品は深みと崇高さを増していきました。1987年病に倒れて右手が不自由になりますが、左手でもって制作活動を続け、キリストや女性をモチーフとして、深く精神的な頭像を作り続け、2002(平成14)年2月に89歳で亡くなりました。


以前聞いたことがあったかもしれないのですが、今回はっきり分かったことは、松本竣介と舟越保武は、岩手県立盛岡中学校の同級生だったことです。中学時代から松本は画家を、舟越は彫刻家を心座すようになりますが、交友が始まったのは二人が上京してからのことでした。二人の親密な交流は松本が亡くなるまで続き、盛岡で二人展を開催したこともあったという。松本は1948(昭和23)年のその生涯を閉じましたが、舟越は心の中で生き続ける親友を追想する文章を多く残しています。







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