大城弘明の写真展「沖縄・終わらない戦後」を観た! | とんとん・にっき

大城弘明の写真展「沖縄・終わらない戦後」を観た!


大城弘明の写真展「沖縄・終わらない戦後」を観てきました。写真展の会場は、市ヶ谷の法政大学外堀校舎1階ロビーでした。主催は法政大学沖縄文化研究所、開催期間は6月7日から20日までです。

僕が沖縄のことを意識したのは、大江健三郎の「沖縄ノート」(岩波新書:1970年9月21日発行)を読んだときからでした。今から40年も前のことです。内容はほとん覚えていないのですが、そこに書かれた内容について訴えられているのは、以前から知っていました。日本軍指揮官が住民に自決を強いたと書いたことについて、指揮官側が名誉毀損で訴えていた裁判でした。最高裁では、大江らの書いていることは相当の理由があったと言えるとして、つい最近、やっと決着がついたようです。


小熊英二の「〈日本人〉の境界」(新曜社:1998年7月10日初版第1刷発行)を読んで、沖縄について学ぶことができました。また「私たちはいまどこにいるのか―小熊英二時評集―」(毎日新聞社:2011年3月10日発行)で、最近の沖縄について知ることができました。小熊は「沖縄アイデンティティーの行方」という項で、沖縄近代史のなかに沖縄最初の新聞「琉球日報」の主筆だった太田朝敷という人がいて「琉球処分」後の1900年の講演で「沖縄今日の急務は何であるかと云えば、一から十まで他府県に似せる事であります。極端にいえばくしゃみする事まで他府県の通りにすると云う事です」と、「日本同化論」を述べたという。


一方、「沖縄タイムス社」の社長・新川明さんは、「反復帰論」を唱えたという。新川さんは沖縄の「異族」性を定義する際に、「異族」というのは日本国家への同一化を拒否する志向のことであって、人種とか血統とかの議論とは無縁(次元が異なる)のことだと述べたという。がしかし、いずれにしても僕には「他人事」の域を脱しませんでした。そうしたなかで、沖縄の人・大城弘明さんを知ることができました。大城さんは、昨年まで沖縄タイムス社の写真部長だった方です。多くの「沖縄問題」に立ち会ってきた方です。


今回の法政での写真展「沖縄・終わらない戦後」は、はっきりと区切ることはできませんが、おおよそ3部構成となっているようです。第1部は、大城家についての写真です。大城さんの生まれた家や、家族や親類の集合写真、つまり大城家の歴史といえます。第2部は、1970年代、沖縄復帰からコザ騒動、戦争の傷跡を残しながらも、サトウキビ刈りの長閑な風景も写されています。第3部は、少女暴行事件や沖縄地位協定への反発からの大規模な決起集会、そしてつい最近の鳩山首相に県内移設反対を突きつける人たちの写真などです。正直言って、写された写真のすべてに関して、とても直視に耐えないほど、悲惨だともいえます。特に大城家の家族の写真は、大きな意味での沖縄の歴史を表しています。



大城さんが書かれた文章を以下に転載しておきます。


沖縄・終わらない戦後
「復帰」前の1968年から72年まで琉球大学の学生だった。米軍占領下の沖縄を解放し平和憲法のもとへ帰りたいと米軍基地撤去闘争や復帰運動を戦ってきた。大学の写真クラブの仲間たちと「沖縄問題」の最前線にカメラを片手に参加していた。
日米共同声明によって「沖縄は72年に核抜きで返還される」ことが決まったが、具体的な交渉が進むにつれ、沖縄の住民が熱望した「基地のない島」の実現にはほど遠い内容であることが明らかになってきた。米軍は残り、あらたに自衛隊が配備されるという。復帰の日が近づき、復帰闘争が収束していく中でデモや闘争に参加し写真を撮っていても高揚感が薄れてきた。
復帰闘争の写真も撮りながら、自分の足元を見つめ直そうとンマリジマ(生まれ育ったふるさと)を撮り始めた。私が生まれたところは三和村幅地(現在糸満市)という集落で、沖縄戦には三和村だけでわずか2週間の戦闘で7万7千人が亡くなっている。撮影を始めたころ、沖縄戦から既に25年もたっていたが、山野にはまだ遺骨があり、福地の住民が日本兵に追い出されたンタヒーアブ(自然壕)の中には日本兵の遺骨や、軍靴、ガスマスクなどが散乱していた。一家全滅の屋敷跡、弾痕が残る石垣など子どものころから見て、聞いて、感じてきた「ふるさと」と写真で関わり始めた。
沖縄戦をテーマに撮り始めたのは終焉の地というのもあるが、戦争で大きな傷を負い、「戦争は二度と体験したくない」とおりにつけ語った母と祖母の影響も大きい。加速の日常の暮らし、親族の行事、集落の祭りなどンマリジマの人びとを通して沖縄戦を表現できないかという考えもあった。
沖縄戦で米軍基地として奪われた土地の大半がまだ「占領」されたままだ。そして今、日米合作で新たに米軍基地を沖縄に作りたいという。沖縄には沖縄人が希望して作った基地など一つもないというのに。米軍の「占領」が終わるまで平和を願いこれからも歩き続ける。


地図にない村
アメリカ軍の従軍記者をして「この世の醜さの極地」といわしめたイクサがあった。そして「三和」という村があった。沖縄戦終焉の地、喜屋武、真壁、摩文仁の三村が壊滅的な被害をこうむり、それぞれ単独では村を再建できなかったため1946年に合併してできた村。三村が「永遠に平和であれ」の願いを込めて命名された「三和」村は、1961年に糸満町(現糸満市)との合併によって地図から消えた。15年の短い命だった。
「地図にない村」は、旧三和村喜屋武に属する福地に生まれ育った写真家大城弘明が、家族と土地に刻み込まれたイクサの記憶に寄り添い、丹念に時間をかけて撮り下ろした写真の集積であり、揺れ動く時代の内側から見た<沖縄>の記録である。眼差しの深さがイクサの傷痕を集合的に重ね、象徴にまで高める。「地図にない村」は沖縄戦を原点にもった戦後沖縄の人間地図である。カメラによる映像の詩学である。







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大城弘明写真集

「地図のない村」

小学館

沖縄写真家シリーズ

「琉球烈像」第1回配本






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