丸木美術館で「武田美通展 戦死者たちからのメッセージ」を観た! | とんとん・にっき

丸木美術館で「武田美通展 戦死者たちからのメッセージ」を観た!



丸木美術館で開催されていた「武田美通展 戦死者たちからのメッセージ」を観てきました。きっかけは、関東地方のローカルなテレビ番組、埼玉県のニュースとして「武田美通展 戦死者たちからのメッセージ」を紹介していたこと、インタビューを受けていた武田美通の話に好感を持ったことがあって、すぐに観に行くことを決めました。そんなわけで「武田美通展」が開催されている「原爆の図丸木美術館」へも初めて行くことになりました。丸木位里、丸木俊の共同制作「原爆の図」も初めて観ることができましたが、実は「武田美通展」を観に行くことが先にありました。


武田美通(たけだ・よしとう)は、1935年北海道小樽市生まれ。皇国の少年として育ち、国民学校(小学校)1年生のとき太平洋戦争に突入、4年生で敗戦を迎える。幼児期から少年期にかけての体験が、その後の人生の原点となる。ひとつの時代、ひとつの社会がつくられていくメカニズムを学ぼうと早稲田大学で社会学を専攻。自分の目で真実を確かめたくて、ジャーナリストを職業に選び、「60年安保」取材を皮切りに激動の昭和の後半のできごとを目撃してきた。36年間のジャーナリスト生活のなかで、とくに自衛隊やアメリカ海兵隊の従軍的取材に力を入れ、少年の頃からのテーマ「戦争とは…国家とは…軍隊とは…」を問い続けてきた。60歳を機に、鉄を打ちたくて造形作家の道を歩む。作品群「戦死者たちからのメッセージ」は、これまでの制作活動の集大成であり、次世代へのメッセージでもある。


チラシの裏にある武田美通の略歴を挙げておきました。たまたま会場で数人の見学者を案内されている武田を見かけました。短パンに、ピンクのTシャツ姿、さすがに髭は真っ白でしたが。作品はすべて鉄でつくった骸骨姿、ほぼ等身大のもの、骨だけで表現されているため、その無念な感じが痛切に伝わってきます。それにしても鉄の彫刻家に転身したのが、60歳を過ぎてからというのには驚きました。人は変わろうと思えば、変われるものなのですね。









遥かわが祖国、日本の皆さまへ

私たちは、かつての太平洋戦争中、天皇陛下のため、
お国のためにと戦場に駆り出され、戦死していった兵士たちです。
当時はみな二十歳前後の前途あるはずの若者でした。
空に、陸に、海に、いま思い出すのさえ恐ろしい、あの地獄の戦線で、
私たちは、武器弾薬はおろか、食料さえもが補給途絶するなか、郷土の名誉を担って、
最後の一兵となるまで鬼神も哭く壮絶な戦いをしました。
無謀、不条理な作戦命令のもと、私たちは圧倒的な銃砲火にさらされ、
病にあるいは飢餓のなかで斃れていったのです。
トカゲや蛇、サル、昆虫などは勿論、わが身の銃創にわく蛆まで食べつくしての戦いでした。
私たちの骨は、いまなお、南方の島々や、東南アジア、中国大陸、沖縄や硫黄島、
そして太平洋の海底に散らばっています。
私たちは、みな祖国日本が二度と戦争のない、
戦争をしない平和な国であれと祈りながら最期を遂げました。
敗戦後、日本に新憲法が制定され、その非戦の誓いのもと繁栄を続けてきたと聞いています。
これなら私たちは安心して後世を託し、
安らかな永遠の眠りに就くことができるものと思っていました。
ところが最近になって、私たちが愛してやまない故郷日本が、
再び戦争のできる国になろうとしているとの気配を感じ、
私たちの眠りは破られました。私たちはあなた方に問いたい。
他国に数千万人の犠牲を強い、私たち兵士二百五十万人民間の方々を含めれば
三百四十万人にのぼる命で購ったはずの教訓を忘れてしまったのでしょうか。
何を血迷っているのか!
再び日本が戦争の道を歩もうとするなら、
私たちにとってこれほどの悲しみ、嘆き、怒りはありません。
かつての激戦地に散乱するわが身の骨片を拾い集め、
白骨の鬼となって、私たちは愚かなものに向かって決起します。
どうか私たちの愛する後世の若い人々よ!私たちの死を無駄にしないでください。
そして遥かなる故郷の平和な風景を夢に見ながら、
なつかしい父や母、兄弟姉妹、友人たちの面影に暖かく抱かれながら、
どうか安らかに眠らせてください。


「原爆の図丸木美術館」ホームページ

とんとん・にっき-take1 「武田美通展」

小冊子

発行:2010年7月
発行者:原爆の図丸木美術館

画像は「被爆、そして黒い雨が・・・」2010年