温又柔の「来福の家」を読んだ! | とんとん・にっき

温又柔の「来福の家」を読んだ!

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「すばる」6月号に掲載された温又柔の「来福の家」を読みました。まず先に「文学界」6月号のシリン・ネザマフィの「拍動」を読もうと思っていたのですが、なぜか順序が逆になって、温又柔の「来福の家」の方を先に読んでしまいました。外国人(中国人)が母国語以外の「日本語」で書いた作品といえば、楊逸の芥川賞受賞作「時が滲む朝」が思い浮かびます。


温又柔とは誰、という疑問をお持ちの方もおられるでしょうから、と言いながら僕も初めてなんですが、とりあえず略歴をみると、1980年台湾・台北生まれ。父の日本赴任により1983年より東京在住。渋谷区立広尾中学校を卒業後、中国語が学べる環境に惹かれて都立飛鳥高校に進学。2006年修士論文「日本人として生まれなかった日本語作家・李良枝(イ・ヤンジ)の作品と主題」を提出し、法政大学大学院を修了、とあります。自分の母文化、母語と日本の関係や、自分自身の心の揺れや悩みについて小説を書くようになり、2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作になります。受賞作よりよかったという人もいたようですが、僕は読んでないのでその辺りは分かりません


正直言って僕は、語学コンプエックスです。日本語もまともにできないのに、英語も、その他の言語もまったくできません。大学ではドイツ語を選択しましたが、いまはまったくできません。ドイツ語の辞書も、どこを探しても見あたりません。また数年前に中国語を習い始めたのですが、すぐに挫折、ますますコンプレックスは強くなり、今に至っています。話の筋にはまったく関係ありませんが・・・。


「来幅の家」は、日本で育った台湾籍の姉妹の物語です。これといったストーリーがあるわけではなく、特に目立った事件が起こるわけではありません。「わたし」の名前は許笑笑、日本式に読めば「キョ・ショウショウ」です。姉の名前は許歓歓、「キョ・カンカン」です。「上野動物園なんかに行かなくたって、許家にきたら、パンダが2匹もいる」と、徴兵を終えて日本に遊びに来ていた叔父さんは言います。また叔父さんは「おまえたちはパンダの姉妹だ」と、姉とわたしのことをからかったりします。


その叔父さんが、俺たち台湾人がパンダを拝むために日本に来るっていうのも皮肉だよな、と母に言います。それを聞いた小学生の姉が「台湾にもパンダがいるはずよ。学校の先生がパンダのふるさとは中国だって言ったもの」と言うと、叔父は「歓歓、台湾は中国じゃないんだ」と言います。台湾からやってきたいとこたちは、台湾にはパンダがいなかったから、上野動物園にパンダを見に行きました。

姉は大学の中国語学科を卒業し、日本語教師の養成学校を出て、外国から来た子供たちに日本語を教える仕事に就いています。姉は「わたしは、自分の意志とは関係なく、突然、日本で暮らさなくちゃ行けなくなった子供たちの力になりたいのよね」と言います。姉の夫である瀬戸さんは、小学校の先生です。妹の「わたし」は「姉に中国語を習ってみようかな」と思ったこともあったが、大学を出た後で「外国語を学ぶために」、中国語の専門学校に入ります。


日本語が「国語」なのは日本だけ。外国語は英語、第2外国語とは英語以外の外国語。世間では、英語はできてあたりまえ。その上で中国語もできるのなら絶対に有利。就職する時に武器にならないわけはない。なにしろ中国語は、「世界の人口の5人に1人が話している」から。口々にそう話す人たちの確信に満ちた態度に、わたしは気おされてしまいます。姉は、あまりにも露骨だし、有利だとか武器になるとか、まるで役に立たないことは一切しませんと宣言しているみたいだと、非難します。


もうずっと長いこと、「わたし」にとっての中国語は文字のない言葉でした。響きそのものでした。それが、中国語を習うようになって、まずピンインを発見します。ピンインを組み合わせると単語ができあがり、単語を法則に従って並べると文になります。ピンインで成り立っている文は、いっけんローマ字の羅列でしかないのだけれど、それを一つ一つたどりながら声に出してみると、いつのまにか意味のある言葉を呟いたことになります。


幼い頃から音声としての中国語にだけ接して育った妹のわたし、名前が「笑む」、「エむ」と発音されるので、赤ちゃんの頃から「エミ」ちゃんと呼ばれて育ちます。幼稚園に通う頃、「エミちゃんの本当のお名前は、きょしょうしょう、なのよ」と姉は教えてくれました。姉は、誰に言われることもなく、迷わずに大学の中国語学科へ進学します。身につけた中国語に磨きをかけるべく、上海と台北へ留学もしました。姉は中国語も日本語も、両国語の文字を覚え、日本語が苦手な母に代わって、学校に提出する連絡帳を自分で書いていました。


「わたし」は赤ちゃんの時から話す言葉は、日本語でした。「笑笑ちゃんは、おうちでは何語で喋るの?」と、専門学校の同級生の小春ちゃんに聞かれたりします。子どもの頃からしょっちゅう聞かれた質問です。小学校2、3年生の授業参観日に、同級生から初めて聞かれました。わたしはどんなふうに答えればいいのか困っていると、母は「おうちでは、適当適当!」と笑いながら答えました。「それ以来、何語で喋るのと聞かれたら、適当適当と答えるの」と、小春ちゃんに答えます。「これ以上しっくりくる答えはないのよね」と言うわたし。


姉は結婚後も瀬戸さんのことを、瀬戸さん、と名字で呼んでいます。「瀬戸さんの方は、おねえちゃんんのことをなんて言うの?」と聞くと、「以前と変わらない。キョさんと呼ばれてる」と答えます。夫婦なのに名字で呼び合うなんてと、わたしが言うと「忘れたの?わたしたちは、結婚しても名字が変わらないのよ」と姉は答えます。結婚によって姓を、片方のものに改める義務があるのは日本人同士の場合だけ。中国人のあたしは、瀬戸さんと結婚したって、瀬戸歓歓、に変わったりしないのよ、と。「ガイジン」であるおかげで、姉は結婚後も「許歓歓」として生きています。


「おばあちゃんの日本語は、おばあちゃんの中国語よりもずっといいって」と、父はよく言っていました。祖父母は、日本語で教育を受けた世代なので、その後台湾で「国語」と指定された中国語よりも、子どもの時に学校で覚えた日本語を上手に話します。そんなエピソードが「招福の家」には満載です。日本人が考えている「言語」や「文字」について改めて問われると、今まで思い込んでいたものがガラガラと音を立てて崩れていきます。ましてや「国」に関しては・・・。


ラスト、姉は「歓歓って、自分でもいい名前だと思うわ。もちろん、笑笑もね」と言います。あたりまえじゃない、「姉妹で、歓笑。こんないい名前、ほかにはないわ」と、わたしは笑います。姉は「子どもの頃、自分に子どもが生まれたら、日本語で発音しても中国語で発音しても、おかしくない名前をつけようと誓っていたの」と言う。ところがねえ、と姉は続けます。「今は、そうおもわないのよ。だって・・・かんかん、も、しょうしょう、も、すごく素敵な響きなんだもの」、そう言った姉の瞳がしっとりと潤んでいます。わたしは「ほんとうにそうよ、おねえちゃん。かんかん、も、しょうしょう、も、最高の名前よ」と。


ここからが「追加」です。朝日新聞の「読書欄」(2010年6月6日)に、酒井充子(あつこ)の「台湾人生」という本が紹介されていました。この本は、日本人と同じ教育を受け、日本語を使う世代の人々を、1969年生まれの著者がインタビューしたものを取りまとめたものです。「あのころは、自分は日本人だと思ってたよ」と、台湾で「日本人」としていくる人々、日本統治期に日本の文化や言葉を教育された台湾人のことです。言うまでもなく、明治28(1895)年から50年間、台湾は日本の領土でした。まさに個人にとって「国」とは何かということを再考させる講書である、と書評を担当した田中貴子(甲南大学教授)は述べています。