大森兄弟の「犬はいつも足元にいて」を読んだ! | とんとん・にっき

大森兄弟の「犬はいつも足元にいて」を読んだ!

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第46回文藝賞は、応募総数1974扁、第1次予選、第2次予選、そして第3次予選通過作品9扁を選出、最終候補作3篇を選び出し、その結果、大森兄弟の「犬はいつも足元にいて」と、藤代泉の「ボーダー&レス」が受賞しました。「文藝賞選評」をみると、田中康夫は「将来に可能性を抱かせる2つの作品と巡り会った」として、「良い意味で一言居士の4人の選考委員が、いずれの作品も内包する諸々の問題点を指摘しながらも、従前の選考会とは異なり、相対的に短い時間の論議で、2作同時受賞へと着地した」と語っています。


大森兄弟の文藝賞受賞作「犬はいつも足元にいて」を、「文藝」冬号で読みました。著者は「大森兄弟」、なかなかのイケメン、なんと小説を書くのに兄弟ユニットで書く、ついにここまで来たか、そんな妙な感慨があります。小説は一人でウジウジ、コツコツと書くものと相場は決まっていましたが、兄弟でユニットで共同作業で書かれたもので、これはもしかしたら文学史上画期的なことなのかもしれません。 兄は1975年生まれの34歳、成城大学法学部卒業、現在看護師で、弟は1976年生まれ32歳、国士舘大学法学部卒業、現在会社員で、共に愛知県生まれです。


「犬はいつも足元にいて」、タイトルから受ける印象とはほど遠い、腐臭をふりまく異様な作品です。主人公の「僕」は、父親が母親と離婚前に「ほら、かわいいよ、今日から家族だよ」と言って連れてきた犬の世話を、嫌々ながらもう2年以上もしています。僕が犬を飼いたがり、世話が当然僕の役割であるとなると、僕はウンザリして犬を「なし」にしたくなります。やりたくてやっているのではない犬の散歩で、週に一度は必ず行く公園があり、そこでたまらなく臭い肉片を、いつも犬が掘り出します。とにかく犬が穴を掘れば、必ず臭い肉が出てきます。公園の茂みの奥は不気味だし、肉はたまらなく臭いし、肉を目にした日の夜は、僕は悪夢にうなされます。穴を掘れば犬は全身土まみれになり、家に上げるときには犬の体や足を拭いたりして、なにかと手間がかかります。


中学への入学後、地味な4人グループができて、5月の連休明けには2人が学校へ来なくなります。残った一人サダにその原因を求めるには時間が短すぎると思いますが、サダは僕たちにも責任があると思いたかったようです。サダとはいつも給食を2人だけで食べているが、いつもどこか噛み合いません。休み時間に犬の散歩の話をサダにします。するとなぜか犬の朝の散歩に、サダが定期的に現れるようになります。そのサダのふくらはぎに、犬が咬みついてしまいます。応急手当をしてサダを家まで送るつもりが、ついてくるなとサダに拒否されます。そのままサダについていくと、ゴミ出ししているおばさんがいました。サダのお母さんでしたが、事情を話すと「今感じた胸の痛み、これを親心と認めたい」とか、「人はそれを満点母さんという」とか、わけのわからない変なことを言います。


犬の散歩コースの小さな運動場でゲートボールをしている老人たちがいます。その中の一人、ゼッケン7番をつけた身体の大きな老人、ナンバーセブンは犬が排便をしているときに後ろから忍び寄ってきます。しわの押し広がった桃色の肛門から湿り気のある糞が出るのを眺めています。そして突然、「私は若い頃、戦争を経験している。・・・質問。臨戦態勢でジャングルを後進しているときに、大便がしたくなったらどうすると思いますか?」と聞きます。僕が警戒していると、「そのまましちゃうんだよ、ズボンのなかにね」、そして「人は大抵のことには慣れるんだよ」と言います。しかし「ただあの臭いだけは私にも無理だね」と付け加えたりします。


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「犬は元気?」とサダが声をかけてきます。大丈夫だったかと聞くと「まあね」と答えて、「相手は犬だ、謝る必要はないよ」と言います。しかし、サダは以前に比べて馴れ馴れしくなり、どんな話題でも強引に自分の足の話題に結びつけ、僕をウンザリさせます。結局のところ、すっかり治っているのも関わらず、「もう一生走ることができなくなるかもしれない」とか、「君の態度には反省が感じられない。これ、病院へ行ったときのレシート」とかしつこく言います。はては「あいつらが、学校を止めたのだっておまえのせいだ」とまで言います。学校を休むと、嫌がらせの無言電話がかかってきたりします。僕も報復として、ナンバーディスプレイに表示された電話番号を、3カ所の公衆便所に、出会いへの期待をほのめかして電話番号を書いたりします。


サダは3日連続学校を休み、松葉杖をついて学校にやってきます。僕はサダの存在に気がついていないふりをします。新しく加わったグループの連中と盛り上がっていると、サダはもう席にいません。僕はサダがもう学校には来ないことを確信します。「サダ君、学校止めちゃったんですか?」と聞くと、先生はしどろもどろで、家庭の事情で違う中学校へ通うことになったと話します。二度と会うことはないだろうと思っていたが、サダは依然と変わりなく、散歩の間中、僕から離れません。ついには包帯をグルグルに巻いた足を引きずりながら、「お金が欲しい」と、被害者として慰謝料を請求する正当性を訴え始めます。ある日サダは右側の頬にガーゼを貼って現れ、上の学年の荒っぽいヤツにカッターでやられたと言うが、僕はサダが自分で傷つけたのだと思います。


佐田から要求された5万円を父親に出して貰おうと父親の住んでる町で出かけます。慰謝料5万円が4倍の20万円にして、父親に言います。家に帰り母親に、父さんは女の人と暮らしていたよと言うと、母親は突然外へと出て行きます。携帯に電話しても繋がりません。父親には、母さんがあなたを殺しに行ったかもしれないと伝言を残します。犬を連れていつもの「肉の広場」へ散歩に行くと、ナンバーセブンとすれ違います。茂みが揺れてサダが顔を出します。犬が掘り始めて肉にたどり着くと、サダは「なんだよ、犬、おかしくないか?」と言います。僕は「お宝を見つけたんだ。そろそろ臭くなるよ」と答えます。サダの頬のガーゼがはがれかけています。ガーゼをはがすと、頬の傷はほとんど治りかけていました。僕はサダの傷に触れてみたくなりました。


選考委員の斎藤美奈子は「また中高生の読者を刺激しそうな2人の少年の物語だが、こちらの関係は純粋無垢とは言い難い。サダと呼ばれる少年の悪意と傷。サダを疎ましく思いながら、自らの悪意も制御できなくなっていく僕。作中からは鉄さびのような血の臭いが立ち昇る。犬は人の一億倍に近い制度で臭いを感知すると言われるが、この作品はそう、嗅覚に訴えるのだ」と、選評で述べています。田中康夫は、「たまらなく臭い肉片を公園で犬が掘り出す。が、それを腐臭として排除するのではなく、生きとし生けるものは匂いならぬ臭いを発し、腐りもする存在なのだ、との輪廻的達観を抱いて、物語は展開する」としています。「作者は世界や人間の負の側面を書かなければ小説にならないという間違った小説観を持っていて、律儀にそれを実行したようだ」と、保坂和志はやや批判的ですが、しかし「主人公もサダも母もサダの母も父もナンバーセブンも、疎ましいのに嫌いになれない、どころか好きになってしまう。この距離感が絶妙であると同時に、この作者独自のものだと思う」としています。


いつものことですが、一度読んで批判的な作品でも、丹念に読んで、こうして書いてみると、その作品のいいところが見えてくることが不思議です。犬そのものが臭いこと、掘り出した肉片の臭い、サダの悪意、父親や母親への悪意、等々、この作品には否定するに足る事象が数多くあります。そういうものが最後に全部ひっくり返って、上がりとなるトランプゲームのような印象を持ちました。



とんとん・にっき-inu 「犬はいつも足元にいて」

著者:大森兄弟

定価:1260円(本体1200円)

発行日:2009年11月11日

中学生の僕と不気味なほど、忠実な犬。茂みの奥で犬が見つけた、得体の知れない“肉”の正体とは? 少年という特別な時間を鮮やかに描く、兄+弟による驚愕の完全共作! 第46回文藝賞受賞作。