イーユン・リーの「千年の祈り」を読んだ! | とんとん・にっき

イーユン・リーの「千年の祈り」を読んだ!

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今年の正月休みに読もうと思って、数冊、アマゾンに申し込んでおいた本、なんかの手違いでかなり遅れて配送されたので、そのまま読まないで積んでおいたままになっていました。その中の一冊、イーユン・リーの「千年の祈り」を、一気に読み終わりました。この作品、ちょうど1年くらい前でしょうか、発売と同時に知ってはいましたが、「千年の祈り」というタイトルがあまりにも通俗?なので、買うのをしばらく躊躇していました。まったくの印象だけでいうと、シュリンクの「逃げてゆく愛」に似ているという感じがしました。「割礼」のようなユダヤ人問題を扱いながら、アメリカ人の恋人とのズレを描いていたからなのか、はたまた「翻訳本」から受ける印象なのでしょうか?


それよりも、中国人が外国語で書いた小説というと、前回の芥川賞を僅差で逃した楊逸を思い出します。「ワンちゃん」を日本語で書いた楊逸は、1964年中国ハルビン市生まれの44歳です。1987年に来日、お茶の水女子大を卒業後、在日中国人向けの新聞社で働きながら創作活動に入ります。2作目(たぶん)の「時の滲む朝」でまた芥川賞候補作に選ばれていますが、これはかなり期待が持てます。たいするイーユン・リーは、1972年北京生まれの36歳です。父親は核開発研究者、母親は教師という知識階級の出身で、研究所内の施設で育ちます。


天安門事件の2年後、北京大学に入学、いきなり軍隊に入隊させられます。新入生の政治的再教育のためでもあり、天安門事件で抗議行動に参加した学生と新入生を接触させないためでもあったという。北京大学ではアメリカの大学院に進むことを夢見つつ、細胞生物学を学びます。卒業後、96年に渡米、アイオワ大学大学院で免疫学修士号を取得します。また同じアイオワ大学の創作科修士号を取得、創作活動に入ります。楊逸とイーユン・リー、共に中国人が外国語で考えて書いたということ、そして「天安門事件」を体験していることが共通していると言えます。


ずっと本にカバーがしてあったので、今回カバーを取り除いてみると、なんと「各紙誌で絶賛!」とあり、「第1回フランク・オコナー国際短編賞受賞!」「PEN/ヘミングウェイ賞受賞」「ガーディアン新人賞・プッシュカート賞受賞」「グランタ『もっとも有望な若手アメリカ作家』2007選出」とあり、「各賞独占、瞠目のデビュー短編集!」とあります。「彼女の世界には、いつまでも冷えない感情の溶岩が、どこかに、少量だけ、確実に残されているのである」と堀江敏幸 が絶賛すれば、「ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』さながら、完璧な短編をつぎからつぎへと読むことができる類まれな作品集」と応じています。


この「千年の祈り」は「新潮クレスト・ブックス」から刊行されていますが、このシリーズはかなり質の高い海外の作品が選ばれて翻訳されています。「千年の祈り」は、約250ページの短編集で、10の作品からなっています。10の短編、それぞれ趣があり、完成度も高い。免疫学の学者出身ということもあり、硬質で、押さえた筆致でうまく書き分けられています。描かれている登場人物も老若男女など多彩で、とりわけ老人の心理を描くことでは秀逸です。もちろんこの作品は、古い価値観に縛られた中国が背景にありますが、イーユン・リーが恋人を中国に残してきたという過去や、性に対する発展的な考え方が、意外に多く作品に表現されたりもしています。


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そしてやはりこの作品は、母国語の中国語ではなく、英語で書かれたということです。後にアメリカに帰化したロシア生まれの作家ウラジミール・ナボコフも、第2言語である英語で小説を書いています。イーユン・リーは週刊新潮(2007年10月4日号)のインタビューで、母語で小説を書くマイナス面を次のように説明します。「アメリカ人は英語が母語だから、華麗で派手な文章を書きます。でも中身はありません。私は英語が第2言語なので、母語ほどintimacy(親密)がありません。常に距離があります。その距離を逆に利用するから、シンプルでエレガントな文章が書けるのです」。逆に「母語で誰でもが経験する若い時期の段階を私はバイパスしています。例えば花や木の名前を英語で覚えても、まったくイメージがわきません。それは大人になってから英語をマスターしたことのマイナスです」とも述べています。


表題作「千年の祈り」のなかで、父親に娘は「父さん、自分の気持ちを言葉にせずに育ったら、ちがう言語を習って新しい言葉で話すほうが楽なの。そうすれば新しい人間になれるの」という個所があります。しかし難しい言い回しはほとんどなく、英語の表現としては(たぶん)平易で、それが作品に深みを増すほどのことはありません。逆に中国古来の言い方なのか、「たとえば20代から30代はじめの結婚適齢期にいる女は、木から摘みとられたライチの実のようなものだ。日ごとにみずみずしさと魅力をうしなって、哀しくもあっというまに値打ちが下がり、安売り価格で片づけられるはめになる」という個所などが物語に深みを与えていて、アメリカ人の生活の中にはない言い回しと言えます。


題名の「千年の祈り」は、英文で「A Thousand Years of Good Prayers」です。表題作「千年の祈り」の中で、ロケット工学者だった石(シー)氏が、離婚した娘を慰めようとアメリカへ渡り、散歩中に知り合い友だちになったイラン出身のマダムに「中国で『修百世可同舟』といいます」、「誰かと同じ舟で川をわたるためには、300年祈らなくてはならない。たがいが会って話すには、長い年月の深い祈りが必ずあったんです」と。「どんな関係にも理由がある、それがことわざの意味です」と付け加えます。そして「愛する人と枕をともにするには、そうしたいと祈って3000年かかる。父と娘なら、おそらく1000年でしょう」という個所から、この本の題名「千年の祈り」はとられたのでしょう。「一夜床をともにした夫婦は百日愛しあう」という箴言(しんげん)を持ち出して娘の不倫をなじると、父親に心を開かない娘からは「父さんはロケット工学者じゃなかった。母さんは知っていたのよ」と反論されてしまいます。ロケット工学者でなくなったことには、別の事情があったのです。「犠牲にしたものこそ、人生を意義あるものにする」、しかし石氏はこの言葉に、顔を大きく横にふります。ロケット工学者の父親と父親に心を開かない娘は、ほとんど作家自身とその生活環境に近いと思われます。


「あまりもの」は、ステンレスの弁当箱を手に持って歩く、いかず後家の林(リン)ばあさんの話。長く縫製工場で働いていたが倒産したので王(ワン)ばあさんのすすめで、金持ちだがアルツハイマーの76歳の唐(タン)じいさんと結婚し、介護に尽くします。僅か2ヶ月で唐じいさんが風呂場で足を滑らせて死んで再び独り身になります。遺産は一銭ももらえませんが、息子の一人に全寮制の私立学校を紹介されます。学校の家政婦になってみると、林ばあさんにとっては最高の暮らしに思えます。割り当てられた寮の洗濯と掃除以外にも、他の仕事を率先してやります。週末は校門の前には高級車がずらりと並びます。しかし親が離婚し、父親が新しい女性と暮らしている康だけが寮に残っています。父親は迎えにくると約束はしたが、康を迎えに来ません。林ばあさんは康のめんどうを機嫌良く引き受けます。康が寝るときも林ばあさんはいつまでも見ています。「何かよくわからないぬくもりが胸の奥でふくらんでいく。これが世に言う、恋する、ということなのか」、そんな激しい思いに林ばあさんは自分がこわくなります。「靴下事件」があったり、康の「雲隠れ事件」があったりして、林ばあさんは学校から出ていくように言われます。荷物はまとめて校門においてあります。「愛の幸せは流星のように飛び去って、愛の痛みはそのあとに続く闇のよう」と、道で林ばあさんを追いこしていく少女が口ずさんでいます。

(もう少し続く)