「ブルーノ・タウト展・アルプス建築から桂離宮へ」を観る! | とんとん・にっき

「ブルーノ・タウト展・アルプス建築から桂離宮へ」を観る!



青山通りの旧ベルコモンズの横を千駄ヶ谷方面に入り、神宮前のキラー通りにあるワタリウム美術館で開催されている「ブルーノ・タウト展 アルプス建築から桂離宮へ」を観に行ってきました。1月に高崎にある少林寺の「七草大祭だるま市」へ行きましたが、その境内にあるブルーノ・タウトが住んでいたという「洗心亭」を見ることも目的の一つでした。見てきた後に、2月にワタリウム美術館で「ブルーノ・タウト展」のあることを知り、楽しみにしていました。以前、岩波書店の校正部長をしていたKさんから「岩波の地下の倉庫にブルーノ・タウトの資料が大量に眠っているよ」という話を聞いたことがありました。僕はドイツ語もできないし、その話はそのままになっていましたが、どうもその資料はその後「早稲田大学」に渡ったようです。強引に見るだけでも見ておけばよかったかなと、いまさらながらに悔やんでいます。


ワタリウム美術館を設計したマリオ・ボッタは、1943年生まれのスイス人建築家です。コルビュジエ、スカルパ、カーンに接して建築を学びました。1973年に竣工したスイスのルガーノ湖畔、サン・ジョルジョ山麓の、赤いブリッジを持つ塔のように立ち上がっている「リヴァ・サン・ヴィターレの住宅」で、一躍世界に衝撃を与えました。ボッタの作品に共通する特徴、シンメトリックな平面や立面、壁、開口部、材料、ディテールなど、ワタリウム美術館では随所に見ることができます。




桂離宮を<再発見>したことで知られるドイツ建築家ブルーノ・タウト(1880-1938)。彼の建築や工芸ばかりではなく、その思想や理念が、今ふたたび注目を集めています。
ベルリンではタウトの設計したジードルンク(集合住宅)の修復が進められ、70年余ぶりに当時の鮮やかな色彩が忠実に復元されました。統一後の大規模な再開発が一息ついたベルリンでは、この20年代の中産階級のためのジードルンクの豊饒な空間が再評価され、現在ユネスコの世界遺産として登録が予定されています。
日本でも、タウトが来日中に設計した『熱海・日向邸』(1935-36)の一般公開が始まり、ワインレッドのシルクの壁に包まれたエレガントなインテリアが人気を集めています。日本を愛し、各地を見聞し著された『ニッポン』や『日本文化私観』などの著作は、日本人のための日本文化の手引きとして、今も広く読み続けられています。
20世紀初頭、タウトは、日常生活、社会生活、そして純粋な精神生活という3要素を融合させたとき初めて完璧な世界となるというユートピア思想をかかげていました。1933年、日本を訪れ、そこでクリエイターや職人たちと出会い、日本の伝統や美意識を体験します。それらはタウトの思想をどのように発展させていったのでしょうか。
(ワタリウム美術館より)




今回の展覧会のために、タウトの作品約170点が、ベルリンを中心としてドイツ全国8ヶ所、さらに日本全国6ヶ所から集められました。タウトの思想の新しい解釈に基づいた3つのコンセプトに沿って展示は次のように構成されています。
第一部  芸術の役目「建築芸術のユートピア」
タウトの美しいドローイング集『アルプス建築』(1919年)、ケルンの博覧会で建設されたガラス工業組合のためのパビリオン『グラスハウス』(1919年)、桂離宮の再評価を決定付けた『画帖桂離宮』(1935年)のオリジナル図版、そしてドイツ時代の建築作品を中心にタウトの構想したユートピアの全貌を展示します。また、展示会場の壁面では、ベルリン郊外の田園都市『ファルケンベルク』(1913-16年)の鮮やかな色彩を当時と同じ天然塗料で再現、床もタウトのデザインによる図案で敷き詰めます。
第二部 自然と芸術「ブルーノ・タウトと日本の友人たち」
今回の展覧会では初めてタウトが娘や日本人の友人たちに宛てた手紙の全貌が明らかにされます。民芸の柳宗悦、ドイツ文学者の篠田英雄、そして唯一の弟子と言われる水原徳言等に宛てた手紙を中心に展示します。そこからタウトにおける建築と芸術の理念を解釈します。その理念の源泉としてベルリン時代のユートピアグループ『ガラスの鎖』とタウトの手紙も合わせて紹介します。
第三部 エレガントな生活「日向邸と工芸」
会場では『熱海、日向邸』の一部を原寸で復元し、そこで工芸品や家具を展示します。日本におけるタウトの建築の特徴は、それが工芸と結び付けられていることです。日本の伝統工芸や民家、それとヨーロッパ近代の機能と精紳が融合された世界として、タウトが日本で設計した住宅のプロジェクトと、工芸品のスケッチやその作品を合わせて展示します。
(ワタリウム美術館より)


東孝光の自邸「塔の家」が、ワタリウム美術館の通りを挟んだ反対側にあります。東孝光は1933年大阪市生まれ、大阪大学卒業後、郵政省建築部を経て坂倉準三大阪事務所に入所。新宿西口広場を担当するので東京勤務になりました。「どうしても都市の中に住みたい」ということで、通称キラー通り、神宮前3丁目にわずか6.22坪の土地を見つけて、建坪3.56坪、延べ坪19.68坪の鉄筋コンクリート造、地下1階地上5階建ての自邸「塔の家」を建てました。1968年に「塔の家」の地下で事務所を開設、発売当時の「都市住宅」では一番の人気作家でした。周りに高層の建物がたくさん建ち並ぶなかで、「塔の家」はコンクリート打ち放しも美しく、毅然としたプロポーションは昔のままです。住まいの図書館出版局から1988年に「塔の家白書」という本が出版されています。東孝光、そして妻の節子、娘で建築家の利恵の3人の共著です。「塔の家」に20年住んだ体験が、それぞれの立場から書かれています。「塔の家」ができてすぐの頃、「見学させて下さい」と突然訪ねたら、奥さんが隅から隅まで案内してくれました。いい時代でした。


ワタリウム美術館


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