「富本憲吉のデザイン空間」を観る! | とんとん・にっき

「富本憲吉のデザイン空間」を観る!

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松下電工汐留ミュージアムで「生誕120年・富本憲吉のデザイン空間」を観ました。今日24日が最終日、かろうじて滑り込みで観ることができました。たまたま汐留で昼食をして、さて、松下電工汐留ミュージアムでは何をやっているのだろうと覗いてみたら、本日最終日の「富本憲吉のデザイン空間」をやっていたということです。実は「富本憲吉」という名は、「汐留ミュージアム」に来るまで、僕はまったく知りませんでした。富本憲吉は、奈良県生駒郡安堵町出身、1886年6月5日生まれで 1963年6月8日に亡くなりました。陶芸家で、人間国宝であり、文化勲章受章者です。


略歴によると、東京美術学校図案科に入学して建築を学び、1908年、卒業前にロンドンへ私費留学し、ヴィクトリア&アルバート美術館に日参し、アーツ・アンド・クラフツの美術にもふれたといいます。ロンドンで後に川崎銀行などを設計した建築家、新家孝正と出会い、写真助手としてインドを巡ります。実家から帰国命令が届いたので1911年ロンドンから帰国します。来日していたバーナード・リーチと出会い、交友を深めます。リーチは陶芸に熱中しており、陶芸家の6世尾形乾山に学んでいました。富本も影響を受けて、1913年、故郷の裏庭に簡単な窯を作り楽焼作りを始めます。



1914年、もと『青鞜』同人で「新しい女」として評判だった尾竹一枝と結婚します。1926年、奈良から世田谷に住まいを移し、窯を築きます。この時点ではまだ世に知られる存在ではありませんでしたが、1927年の特別展で評判を得ます。のちに訣別しますが、柳宗悦の民芸運動にも共感を寄せます。1944年、東京美術学校教授になります。終戦後の1946年、美術学校を辞し、家族とも別れ京都へ移ります。1949年京都市立美術大学教授(1963年まで)。1955年、重要無形文化財技術指定保持者(人間国宝)になります。1961年、文化勲章を受章します。1963年に死去。奈良の自宅跡は「富本憲吉記念館」になっています。

参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


さて、今回の展覧会のタイトル、「生誕120年・富本憲吉のデザイン空間」とありますが、英文では「Kenkichi Tomimoto as Interior designer」となっています。ちょっと、ニュアンスが違うような気がしますが。陶芸家として名をなした富本憲吉ですが、略歴にもある通り、建築が建築家の仕事に成りつつある明治時代の終わりに、東京美術学校図案科で建築を学び、また、ステンドグラスを修得しようとしたロンドン留学で、アーツ・アンド・クラフツ運動に接して、建築という総合芸術に帰属するあらゆるデザインの洗礼を受けた人でした。


壁面を飾る版画というグラフィック・デザイン、タピストリーや椅子、照明器具などのインテリア・デザイン、さらに室内の教養を演出する書籍や飲食器のデザイン、それらを総合した建築デザイン。富本憲吉の陶芸作品はその延長線上に出来ています。僕は、先ず思い浮かべたのは、建築家志望から内装と家具のデザイン、壁紙や染色、織物タピストリー、書体のデザインや印刷に至るまでデザインしたウィリアム・モリスでした。富本憲吉も、柳屋書店の法被や包装紙のデザイン、模様タイルや刺繍壁掛けのデザイン、色絵額皿や白磁壺、等々、生活に必要なすべてのものをデザインしています。


今回の展示の最初に出てくるのは、ロンドン留学時に学んだのか、イギリス風の住宅の図面が展示してありました。また、祖師谷の自宅は、和室のまったくない平屋建ての住宅で、もちろん、富本の設計によるものでした。デザインの分野では、それぞれの専門分化が究極まで進み、個人がバラバラに解体されてしまっています。それに対し、富本憲吉の仕事は、すべてを一人でこなし、総合的な居住空間へとつなげようとしていた仕事であったと思います。陶芸作品との関連で、現代における富本憲吉の意味を問う今回の展覧会は、大いに意義がある展覧会だと思いました。


松下電工汐留ミュージアム