新日曜美術館で「丹下健三」を見た!その2
丹下の手足となって働いた一番弟子の磯崎新は、この「大阪万博」で丹下と決別します。磯崎は、丹下の葬儀では「不肖の弟子」という弔辞を述べています。その頃から丹下の仕事は日本では少なくなり、1970年以降、「都市デザイン」をひっさげて、「世界のタンゲ」として海外に雄飛することになります。技術的ははるかに進歩しているのにも関わらず、国家の総力を上げてつくられた「代々木体育館」のような作品はつくれない時代になりました。「大阪万国博覧会」のような、国民的に一体となる仕事はなくなりました。
丹下事務所には、勤めていた知人を訪ねて、なんの用事だったか、一度だけ行ったことがあります。当時の丹下事務所は、赤坂の「東宮御所」を見下ろす丹下が設計した「草月ビル」の上の方でした。その前は、表参道と明治通の交差点にあるビルだったと思います。受付で待たされたときにテレビが付いていて、都知事の選挙について放映していました。森英恵と丹下健三の2人が、鈴木俊一候補の選挙の後援会長をやっていたんですね。事務所内で歓声が何度も上がったのには、ちょっと嫌な気分になりました。
その「都庁」のコンペに「出来レース」と言われながら、丹下は「ノートルダム寺院」の形を引用して見事に勝ちました。他の応募者は都庁を単なる事務所空間として考えていました。たしかに都庁の中身はそうなのですが、そこに「記念碑性」を付与してことでは丹下案は応募案の中では格段に優れていました。その頃丹下は「ポストモダニズムに出口はない」という「新建築」の巻頭論文でポストモダンを批判していたんですが、「東京都新庁舎」のコンペの結果は、丹下案が最もポストモダンな建築だったということもありました。竣工は1991年です。
1982年に竣工した「赤坂プリンスホテル新館」のロビーに使われている材料は、ほとんどが白い大理石です。その白い大理石の空間に一段と高いところがあり、そこに白いピアノが置いてあります。竣工してすぐの頃だったと思いますが、ロビーでお茶を飲んでいたら、その横を蝶ネクタイをした丹下健三が奥さんと二人、通り抜けていくのを目撃したことがありました。その後、1996年には「フジテレビ本社ビル」、2000年には「東京ドームホテル」、2005年には「東京プリンスホテル・パークタワー」が完成しますが、それらの作品は規模は大きいのですが、ほとんど建築的なインパクトは感じられません。その丹下健三も亡くなりました。それは「国民的建築家」としての丹下健三が体現した、建築における「日本の近代」が終わったことを意味すると、評論家の八束はじめは指摘します。
今気が付いたのですが、丹下健三は著作が少ないということもありますが、僕は彼の本はほとんど持っていません。数少ない彼の著作として「デザインおぼえがき」として、それまで書かれたものを集めた「人間と建築」「建築と都市」という、1970年に彰国社から出版された2冊の本があります。また、「桂KATSURA」(中央公論社)を持っています。購入したのは昭和46年です。写真家石元泰博の写真に、丹下の「日本建築における伝統と創造」という論文が付いています。1960年に出版されたものの改訂版で、1971年に出版されたものです。「昭和の大修理」を行う以前の「桂離宮」の貴重な写真が載っています。
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