先天性風疹症候群(CRS)という経験を通じて NO9 | 風疹をなくそうの会『hand in hand 』

風疹をなくそうの会『hand in hand 』

風疹をなくそうの会『hand in hand 』
患者会のブログとして活動報告などの会の情報を載せていきたいと思ってます

風疹排除までお付き合いください
よろしくお願いします。

             Sakurakoさんの手記
       (Sakurakoさんは大学院生として勉強されているCRSの方です。)
私は、1989年に東京都内で生まれました。母は、妊娠初期に全身に及ぶ発熱とリンパ腺の腫れの症状を感じましたが、風疹の抗体があるから大丈夫だと言われました。不安を抱えて何件かの病院を訪れたものの「大丈夫だから」と言われ、そのまま出産に至りました。

  生まれた直後に、心臓病(心室中隔欠損)があるということが分かり、すぐに小児科に入院し検査を受けました。四日目に、定期検診のみで良く日常生活にも支障ないと知らされて、母と一緒に退院することができました。

 

 生後三週間で、左目が黒目の半分以上白く濁っているのに、母が気付きました。大学病院の眼科を受診し、先天性白内障との診断を下され、手術しなければ失明すると聞かされたのは生後一ヶ月のときでした。このときに、心臓と目のことから、先天性風疹症候群と診断され、耳の障害についても知らされました。耳の聴こえが悪いということが、知識だけでなく、日常生活の中でもはっきりと分かったそうです。

 
 生後三ヶ月になってやっとベッドの空きができ、手術をうけました。生まれてはじめての入院は一ヶ月に及びました。私が母に会えたのは二日に一度、四時間だけでした。手術は、両眼の水晶体を取り除いて、瞳孔を形成するものでした。以降、二十数年にわたり、遠近調節の役割を果たす水晶体を摘出したことで、強度の遠視となり、分厚い眼鏡を装用することになりました。

 

 生まれてひと月で、我が子の目が見えず耳もきこえないということを知って、両親は絶望したことでしょう。母は、このときの絶望をいまでもはっきりと覚えているようです。そして何年もの間、自分を責め続け、苦しんできました。風疹だと分かっていたら産めなかったかもしれない、そう私に言ったこともあります。私自身も、風疹にさえならなかったらという思いで母を何度責めたか分かりません。でも、今は、母が生み育ててくれたことに感謝しています─みなさんとこうして出会えたのですから!

 

 その後、聾学校などいくつかの教育機関にお世話になり、小学校からは健聴の学校にインテグレーションしました。中学校時代に不登校になり、中学、高校と不安定な時代を過ごしました。大学は地元を離れ、茨城県つくば市にある筑波技術大学産業技術学部(聴覚障害者対象)へと進学しましたが、大学生活でも目と耳の重複障害のために手話を覚えるのに苦労するなど、卒業の日までずっと挫折の連続でした。こうした挫折の日々の中で、同じ障害を持つ仲間たちと語り合い、経験を共有できたことで、どうにかここまで生きてこられたというふうに感じています。

 

 私は、この世に生まれて良い両親と友人に恵まれ幸せだと思っています。しかし、風疹になって目と耳に障害を抱えて生まれて良かったとは思っていません。私や私の両親が経験した辛い思いを皆さんにさせたくはありません。風疹で生まれる子供が一人でも減ってほしいと願っています。妊娠を考えている女性の皆さん、必ず、風疹ワクチンを打ってください。

 

 また、妊娠中に障害のある子供が生まれるかもしれないと分かったとき、すぐにあきらめて中絶しないでほしいとも思います。障害をもっているからイコール不幸な人生ではありません。健常の人にはない苦しく辛い人生がより人生を豊かにしてくれます。障害があっても幸せな人生を送ることができます。少なくとも幸せになるチャンスが健常の子供と同じように巡ってくると私は信じています。


Sakurakoさんのホームページ:

「先天性風疹症候群(CRS)とともに」

http://sakurasakuko.sakura.ne.jp/crs/