もやもやっとするw
とにかくもやもやッとする劇場版「MOZU」なのである。
テレビ版、WOWWOW版と見てきた者にとってパラレルワールドを見ているよう、というか煙に巻かれたよう、というか。
芯自体が違うものに見えてくる。
以下、私のつたない感想ですがネタバレ含むのでこれから映画を見る、またはビデオで見たいと思っている人は飛ばしてください。
劇場版のみで出てくる、松阪桃李、伊勢谷友介、ビートたけしの存在感が大きすぎる。
時間も大きく割き、大きすぎるのに結果、ストーリーには深みを与えていないということがもったいなさすぎる。
これで終わるのか?
本当に完結でいいのか?
だとしたら今までの作り上げてきたMOZU Worldがもったいないとしか言いようがない。
ペナム共和国の混沌としたカオスな世界観は、スワロウテイルに出てきた九龍の闇に似ている。
日本にはありえないけれど、確実にどこかで息づいている黒い社会。
見えない不安な世界で蠢く権力と虫けら以下の巨大ビジネス、そういった世界が存在することは容易に想像だけはできるが故に、劇場版のいい意味での”気持ち悪い感じ”は嫌いではない。
群を抜いているのは、大きなシアタースクリーンでも引けを取らない、”MOZU”新谷(しんがい)和彦役の池松壮亮の演技。
あの独特の舌足らずな声で綴るモノローグが、この不可思議な劇場版とテレビ版の世界とを一気につなぐ。
新谷のアイスピックの先が鉄杭をカンカンと鳴らしていくシーンが入ると、とたんにMOZUの世界にトンネルがつながるように腑に落ちる。
衝動に意味はなくても、衝動に意義がある、と言うかのような新谷のセリフ。
あとは東を演じる長谷川博己のエキセントリックな面ばかり記憶に残っていた姿が、そうか実は元公安だったよねという彼の出自にも戻ってくるところが劇場版の救いだ。
東の苦しみって初めて浮き彫りにされたような?
正義がねじ曲がっていくことができるのは、それぞれにいつかは正義があったからだ。
細かいことを言ってしまえば、ダルマが復活するためには量産されたこどもたちが必要だというくだりで映倫に引っかかったのか、「エレナの血が必要だ」と言うシーンは綺麗に収まりすぎていて、あれは「エレナの肉が必要だ」の方がしっくりくる。
人を物のように扱うダルマ、ダルマの非情さが致命的に足らない。
MOZUにはたまにあるのだけど、わざと綺麗にセリフを言ってしまうがために高尚になりすぎてなまなましさに欠けるときが。
制作陣の故意なイメージ操作のせいかもしれないけれど、シリーズ1のビル爆破で人間が吹っ飛んでしまったシーンは鮮明に描いたのだから、そのあたりはもっとグロくてもいい気がする。
そう、なまなましさが伝わってこず、ダルマが怪物であるというこのMOZU最大のタブーに、今作のインパクトが伴っていないのだ。
ダルマが生きている実在の闇で、たくさんの犠牲や国家の未曾有の闇を牛耳っていたわけである。
そこが釣り合っていない点が今回一番の問題になっている。
ダルマはタブーらしき存在感ではなく、ダルマの使っていた殺し屋や手先たちがそれぞれ色濃くキャラクター性に富んでいた、なんて皮肉な話ではないか。
だが逆に安定のMOZUのオアシス、大杉。香川照之のどうしようもなくおっさん感が今作も素晴らしい。
ラストの真木よう子とのやり取り、レストランでいらいらタバコを吸う感じ、たまらなくマックスおやじ。
そして真木よう子のシーンの少なさはいただけない。
正義感と倉木への信頼と父親への葛藤が劇場版では皆無で、彼女の映えるシーンがないのも淋しかった。
捕獲されたシーンでも、明星らしさのない軟弱さ・・・
エレナを守る母性的シーンなど欲しかった気もする。
あえて言うなら、最期にこんな新谷のエンドロールが欲しかった。
「だまされるな。
MOZUの生贄は、終わったわけじゃない。」