私たちプロダンサーというものは、プロ野球選手のように年俸をもらっているわけでもなく、




プロゴルファーのように賞金で食べているわけでもありません。




私たちのダンスを支持し、




習いたいと来て下さる方々や、




デモに呼んで下さる方など、




多くの方がいらっしゃるからこそ成り立っています。




多くの方の支えがあってこそ、私たちは踊り続けることができます。




その感謝は片時も忘れてはならないと思っています。




しかし、私たちを心配するがゆえに、私たちの入ってほしくない領域までどんどん入ってこられると




それは少し違ったものになってしまいます。




理屈では、その言葉は心配ゆえのものなのだ、




応援してくれるからこそそういうことまでして下さるのだ、




そう一生懸命理解しようとしても、




正直、逆に重荷に感じてしまうことだってないわけではありません。




私の場合は祖母がそういうタイプでした。




私のことを心配してくれるあまり、常に見張られているようで、家にいても心の休まる時がありませんでした。




両親は反対に、自己選択・自己責任という考えでした。




自分のすきなようにやりなさい。ただし一度これと決めたことは、責任を持ってやり遂げなさい。




祖母とは真逆のタイプでした。




勉強しろとも、一度も言われたことがありません。




だからこそ、自分で目標を決めて、それに向かってがんばってきました。




プロダンサーになった今も、それは同じです。




また同時に、自分がほかの人に何かをしてあげるときも、




その人がほんとに望んでいるとおりにちゃんとなっているかな?と




受け取る側の気遣いをすることを忘れてはならないと思います。




ま、むしろそれを考えすぎるあまり、ときに他人行儀になってしまったりして、




よく失敗するのが私の欠点でもあるのですが。




こういった気遣いというのは、人間関係を築く上で欠かせないものであると同時に、




とても難しいものだということは、じゅうじゅう承知しています。




そして、難しいものだからこそ、そしてそれが私たちを心配してのことだとわかっていたからこそ、




それが、受け取る私たちにとって、ほんとうにありがたいことなのかを、




ほんの少しでも、想像してほしかった。




思ったままのことをストレートに口にし、思ったままの行動をする。




それが、相手を思ってしたことだから、自分にとっては何が悪いのかわからない、ということ自体が、




決して正解とは限らないことに、気がついてほしかった。




そして、それらが、私たちを思ってしてくれているのだからなんとかありがたく受け入れなければ、と、




私自身が長いあいだ、無理の蓄積をしていたことに、気がついてしまいました。




今までありがとうございました。




たくさんお世話になったことは、忘れません。




お元気で。