DTPやデジカメのように
企業の利益ツールにさせるな
電子書籍を理解してください

新しい事が起ころうとしている時、その理念が大きく歪められることがあります。それは企業や業界の思惑が優先して、利益誘導と経費削減という経済行為に差し替えられることです。
オイラは、これまでにそれを二度体験しています。そして、それは日本の社会では、すでにごくあたりまえのようなことになってしまっているのです。
今回の電子書籍騒動も本来の理念が歪められ、定着するころには、単なる集金システムの整備にしかならない危険があるので、あえて警告しておきたいと思います。
それと、いちばん歪曲した方向に協力していくのが、現在起こっていることを「今までのままでいいんじゃない。そんなに急激に変わる分けじゃないよ」と無関心な人たちであることも、付け加えておきます。

1985年、アルダス社がページメーカーというソフトを発売した時、開発者であり社長のポール・ブレイナード氏はDTP(Desktop publishing/デスクトップパブリッシング)という理念を提唱しました。
今までプロでなければできなかった出版物の作法を、一般の人々に開放しようと考えたのです。しかし、25年経った今そうなっているかどうか考えてみてください。誰も自分でDTPをする作家はいません。
'90年代中頃、DTPという理念は、見事に企業の経費削減ツールに変換され、バブルの崩壊の尻拭いに使われてしまったのです。もっと優れた作家が多くデビューしても良かったはずですが、DTPで個人のクリエイティブな事は、何も起こらなかったに等しいと思います。
出版作業が時間的に短縮されたということもありません。写植屋という業種が消えたことくらいです。

1995年、カシオが一般普及機のデジタルカメラ「QV-10」を発売した時、「こんな画像は使い物にならない、おもちゃだよ。銀塩フィルムはなくならない」と言っていたのに、15年経ったらこの状況です。プロの写真のクオリティーが上がったでしょうか?写真に対する芸術的な評価は上がったでしょうか?それよりもカメラマンという職業さえ危うくなっています。

オイラは1980年代中頃には、すでにMacintoshとQuark XPressを使っていたので、いろんな会社でDTPの講演会及び実習を行ないました。新人にノウハウを教えて、人員を供給したこともあります。上場企業とDTP普及のショールームまで立上げたことがあります。
その時に経営者が云うことは決まって「どのくらい利益があがりますか?」という質問でした(笑)。
当然、すぐには数字としては上がってくる分けもない社内での編集制作システムの構築ですから、「機材の導入は無駄だった」などと陰口を叩かれたものです(笑)。でも、確実に世の中はそうなりました。

1996年に日本で最初の一般普及機デジカメでムックを1冊を作った時(日本で最初にデジタルカメラで本を作ったのはオイラです/ホント!)、大手印刷会社に云われたのは「このシステムとノウハウを中古車情報誌の出版社に売りましょう。ざっと見積もっても1,500万円ですね」と囁かれました(笑)。その時のことは、DTP専門雑誌にも原稿を依頼されて書いたことを覚えています。

オイラが思うDTPやデジタルカメラは、個人でこれまで職人芸とされた事が、分業ではなく好きにできるクリエイティブなツールであり、決して経費削減や時間短縮の合理性だけを目的にしたものではありませんでした。
個人が思うように拘って、分業せずに気がすむまでじっくり作り込むツールになる夢をみたのです。
当然、オイラのワガママを聞いて、いろいろな実験をさせて貰った出版社やクライアントには感謝しています。しかし、社会の流れが大きく作用して経費削減や時間短縮、人件費削減などに使われたことは否めません。

上記の二度のグラフィック、出版改革の場にいながら、オイラは流れに飲み込まれてしまいました。

この二度の失敗は、必要な内側の人たちとだけと手を結んだことです。多くの理解不能な人たちを置いてきぼりにした結果、その人たちは後に経費削減、時間短縮、人件費削減などの分かりやすい合理性にナットクしてしまったのです・・・それが現状です。今でも、そのような人たちはアナログとデジタルの戦いくらいにしか、物事を理解していませんし、そう考えることでアナログ側に身をおいて、安心と自分の無知を許しているのです。これは、決してアナログとデジタルの戦いではありません。

オイラは、今回の電子書籍の波は、最後のチャンスだと思っています。本は出版社や印刷会社、出版流通、町の本屋の利益のためにあるのではありません。作家と読者のクリエイティブのためにあるのです。
電子書籍の理念を真摯に受け止め、歪められた方向に物事が運ばないように、ひとりひとりが賢く見守って欲しいと願っています。また、今起こっている事が、単に電子書籍というメディアだけのこととして受け止めているのなら、大きな間違いです。社会構造の地殻変動が起こっていることに気づいてください。今までの習慣で生きて行くのは楽なことです。しかし、もっと自由な未来のために、生みの苦しみにつき合わなければならないことも確かなのです。そのために習慣的な慣れとは決別する勇気も、時として必要なのです。

ブッキンはそれを理解するための
体感できるホビー行為なのです
理解のために是非お試しください

オイラの電子書籍における、基本的な考え方を記しておきます。共感頂けると嬉しい。
みなさんも、雑誌や新聞は、今ある形のままで電子化される必要はないことに気づいているはずです。雑誌や新聞のあるべき姿はホームページのアレンジバージョンで十分です。無理に紙のような見え方にする必要は一切ありません。新聞が縦組みであることを望んでいるのは、パソコンを使わない人たちの戯言です(笑)。
一生懸命、雑誌も電子書籍の波にのって紙の雑誌の見栄えにしようとしている人たちは、紙と同じ値段を読者から巻き上げたいと考えているだけ、動画が観えようが他にリンクされていようが、それで付加価値がつくでしょうか?それはすでにネットでは普通のことなのに・・・雑誌や新聞は、紙かネットかが選択できればいいだけです。紙に都合のいい体裁を保っている必要はないと思います。それは、きっとご理解頂けると考えています。

新聞、雑誌はWEBプログラミングで良し!
わざわざ電子書籍にする必要なし

そうはいかないのが書籍なのです。すべてのワークフローやマーケットを考えても、見直さなければならないくらい、出版文化と云うのにはほど遠い、ウレ線優先の瀕死の状態にあるからです。電子書籍化することで、作家と読者がダイレクトに繋がる可能性までも秘めているのです。出来るだけ身軽なシステムにすることで、部数に関係なく、リリースが始められることで多くの才能と出会えるかもしれません。また、文字の縦組み文化も捨てる分けにはいきません。単行本の持つ情緒をできるだけ再現してこそ、多くの人たちに賛同してもらえると思っています。

1年に1冊も本を買わない読まない人が
電子書籍で変わるかも知れません

出版社、印刷会社、出版流通業者が生き残りを賭けて、あの手この手で電子出版の理念を歪める行動に走るのは確かです(電子出版の理念を考えると、必要のない業種になってしまいます)。いづれ消えて行くか縮小していく業種ですから当然です。彼らに電子出版の業界スタンダード、ルールを作らせないように気をつけましょう。スタンダードやルールを作っていいのは、作家と読者だけです。
キンドルやiPadを手に入れることが、本の電子書籍化ではありません。本という人類の創作物を、未来にどのような形で遺し、誰でも読めるようにして行くかを考えることが、本の電子書籍化なのです。
それを有益に閲覧できるデバイスがiPadだと誰が確証を持って断言できるでしょうか?デバイスで盛り上るのではなく、本の未来を考え有効なことを実践することにこそ、電子書籍化は意味があるのです。