Falling in love again(前編) | In The Groove

In The Groove

a beautiful tomorrow yea

 
は、私たちを幸せにするためにあるのではありません。は、悩んだり、耐えたりするときに、私たちがどのくらい強くなることができるかを、私たちに示してくれるためにあるのだと、私は信じています。

―ヘルマン・ヘッセ

 

人はに苦しみます。しかし、に身を捧げれば捧げるほど、は私たちを強くしてくれます。

―ヘルマン・ヘッセ

 

とは、すべてのものに勝ることであり、すべてを理解できることであり、どんなに苦しいときにも微笑むことができることである。私たち自身をすること、私たちの運命をすること、運命が私たちに要求し、私たちのために計画しているものに、たとえ私たちがまだそれを見通せず、理解できない場合でも、自ら進んで従うこと―私たちが目指しているのはこれです。

―ヘルマン・ヘッセ

 

というものは、芸術の場合もそうだけど、不思議なものである。は、どんな教養も、どんな知性も、どんな批評もできないことができるのである。つまりはどんなにかけ離れたものを結びつけるし、最古のものと最新のものをも併置させる。は一切のものを自己の中心に結びつけることによって、時間を克服する。だけが人間にとって確実な支えとなる。だけが、正当性を主張しないがゆえに、正当性をもつ。

―ヘルマン・ヘッセ

 

澁澤龍ヘルマン・ヘッセ

 

年末年始に、以前のブログでも取り上げた・・・澁澤龍著『快楽主義の哲学』とヘルマン・ヘッセ著『愛することができる人は幸せだ』を読了し、E.L.ジェイムズ著『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』の上下巻に関しては、上巻の56頁の途中まで読み終えたところで、オスカー・ワイルドの言葉「私にとって自分の義務は、猛烈に楽しむことだ」を思い出した。ヘッセとワイルドの知的で洗練された文章は、美しく、圧倒的で、完璧だ。

 

快楽主義の哲学』の第5章では、快楽主義の巨人たちとして、最初の自由人・ギリシャの哲学者<ディオゲネス>をはじめ、酔生夢死の快楽・酒の詩人<李白>、ペンは剣よりも強し・イタリアの毒舌家<ピエトロ・アレティーノ>、生きる技術の名人・イタリアの行動家<カサノヴァ>、リベルタンの放蕩・フランスの文学者<マルキ・ド・サド>、調和型の人間・ドイツの大文豪<ゲーテ>、(大作家バルザック同様)19世紀フランスの美食の大家<ブリア=サヴァラン>、血と太陽の崇拝者で反逆児・名門オックスフォード大卒・イギリス世紀末の耽美作家<オスカー・ワイルド>、ユーモアは快楽の源泉・フランスの奇人で酒飲み文士<アルフレッド・ジャリ>、(ボードレールエドガー・アラン・ポーモーパッサン同様)麻薬を礼賛したフランスの詩人<ジャン・コクトー>が取り上げられている。

 

ジャン・コクトーの「アヘンを吸ったあとでは、肉体がものを思う。肉体が夢を見、肉体が綿をちぎったように舞い、肉体が天かける。アヘンを吸う人間は生きたミイラだ」に対して、澁澤龍氏は「肉体が無気力になり、敏感な感覚がどんどん消えていき、けだるい持続的な快感のみが五体をしびれさせるような境地―こういう奇妙な感覚を、何と呼んだらよいものか。私は、やはり一種の東洋的な寂滅思想、ニルヴァーナ的な快感ではないかと思います」と著書の中で述べている。それは、アメリカ西海岸のロックバンド<ニルヴァーナ>(1987-1994)のバンド名と同じだが、自殺した同バンドのフロントマン<カート・コバーン>(1967-1994/享年27歳)も快楽主義者のひとりだったのだろう。彼らがカヴァーしたデヴィッド・ボウイの名曲“The Man Who Sold The World(世界を売った男)”も素晴らしい。尚、『快楽主義の哲学』が出版されたのは1965年だ。

 

先述した快楽主義の巨人にも負けず劣らずの、20世紀を代表する快楽主義者は、ロックスター<デヴィッド・ボウイ>と<ミック・ジャガー>がまず思い浮かぶが、彼らは70年代に麻薬に溺れていたのは事実だ。そして、21世紀を代表する快楽主義者は、スーパーモデライザーことハリウッドスターの<レオナルド・ディカプリオ>に他ならないが、ディカプリオの華麗なる恋愛遍歴はボウイやジャガー同様に異次元レヴェルだとも言え、それは彼ら以外にはけっして誰にも真似できないと思われ、先述したカサノヴァには量では遠く及ばずとも、質では勝っているかもしれず、ひとつだけ言える確かなことは、ディカプリオはカサノヴァ並に行動力がある、女好きの男だということだ。そして、デヴィッド・ボウイ、誕生日(1月8日に68歳)おめでとう!

 

ところで、2013年のちょうど今頃には、トム・クルーズが、映画『アウトロー』のジャパンプレミア(1月9日/東京国際フォーラム)のために来日し、2014年1月末頃には、レオナルド・ディカプリオが、映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のジャパンプレミア(1月28日/TOHOシネマズ・六本木ヒルズ)のために来日した。つい先日の出来事のようにも思えるが、光陰矢の如しだ。

 

2013年1月7日付ブログ“American dreams came true somehow”は、テーマを「映画」で、2013年上半期の私的なオススメ映画を紹介すると共に、トム・クルーズ来日記念(ハンサムで誠実、そしてスーパー・リッチな彼は、理想の男だ)として、俺はMr. Rightトム・クルーズ>について次のように綴った。彼にとって、“impossibility(不可能)”という言葉はないのかもしれない。彼に訊きたい。人生の“ミッション・インポッシブル”とは?

 

自己変革が到底不可能な女に、自己変革しろと迫るのが、トム・クルーズの趣味なのかもしれない。どうも彼には、そういう不可能へ寄せる情熱のようなものがある。そして美女たちは結局逃げ、彼自身はそのことによって、必然的に自己変革を迫られるという、彼自身にとっては、或る意味で、なかなか都合の良いシステムが出来上がっていて、だから俺は、妻に逃げられるという一種の才能も、この世の中にはあるのだと感嘆した。

 

と自由について

 

ブログ冒頭、ヘッセの名言「というものは、芸術の場合もそうだけど、不思議なものである。は、どんな教養も、どんな知性も、どんな批評もできないことができるのである。つまりはどんなにかけ離れたものを結びつけるし、最古のものと最新のものをも併置させる。は一切のものを自己の中心に結びつけることによって、時間を克服するだけが人間にとって確実な支えとなる。だけが、正当性を主張しないがゆえに、正当性をもつ」を引用したが、

 

その言葉は正に、クリストファー・ノーラン監督作『インターステラー』の本質を見事に捉えており、相対性理論やブラックホール、ワームホール、五次元空間などなどの定義はともかく、同作品を理解できなかった人は、先述したヘッセの言葉を何度も読み返せば、その答えを見つけられるはずだ。重力の問題は関係ないとは言わないが、作品そのものの本質ではない。同作品については、前回のブログでも書いたが、2014年に日本で劇場公開された洋画の中では、私的なNo.1であり、評価も唯一「4点」を越え、「4.25点/5点」と採点した。

 

また、前回のブログ冒頭で、トフラー夫妻の「ハリウッド映画は、自由とは制約のない快楽主義だというメッセージを送っている」を引用したが、2011年11月20日付ブログ“Is this LOVE?”では、園子温監督作『恋の罪』を取り上げ、その感想を綴ったが、同作品のラストでは、刑事役の水野美紀が、自宅からゴミ捨てに行くシーンに切り替わるが、その途中、彼女が住んでいるアパートの外観が一瞬映し出されるのだが、そのアパート名は、俺の記憶が間違っていなければ、「リバティ(ハウス)」だったと思う。そう、“liberty”とは、「自由」という意味だ。

 

当時、俺が想ったのは、邦画にもハリウッド映画のように、あからさまでなく、「自由とは制約のない快楽主義だ」というメッセージを送り、メタファーを使っている監督がいたのかと、驚きを隠せなかったものだ。彼の監督作品もいくつか観たが、『恋の罪』に限れば、すごく巧く出来たそれだったと思う。邦画をほとんど観ない俺の興味をほんの少しばかり、邦画に向かわせてくれた日本人監督でもあるのは確かだ。大島渚黒澤明小津安二郎という、日本を代表する偉大な監督たちとは比べられないが、園子温監督は21世紀の退屈な日本映画界において、大胆で繊細、かつ面白い脚本も書ける貴重な変人だとも言える。尚、カリスマ性は一切感じられないのも魅力だ(笑)。

 

洋画に話を戻すが、デヴィッド・クローネンバーグ監督作『マップ・トゥ・ザ・スターズ』は、『インターステラー』のある家族の物語とは対照的に、ハリウッドに生きるセレブリティ家族の関係を描いていたが、クローネンバーグはそのハリウッド的な快楽主義を見事に皮肉り、ユーモアを交え、スターたちの俗悪さを嘲笑った。両作品は対照的であり、前者は主人公がブラックホールにも五次元空間にも呑み込まれることなく、が時間をも克服し、が家族の確実な支えとなり、ハッピー・エンディングへと導いていく一方、後者は登場人物たちが、ハリウッドという虚構の世界からいつまでも抜け出せず、逆に呑み込まれてしまい、それぞれの剥き出しの孤独を象徴するかのように、亡霊まで登場し、破滅型の「不幸」へと突き進んでいく悲劇だ。

 

要するに、前者は広大で謎に満ちた「宇宙」が、後者は欲望と狂気が渦巻く「ハリウッド」が舞台であり、設定としては「」であることに変わりはない。映画の好みもまた十人十色なのだろうが、『インターステラー』の凄さは、「映像や音楽で観客を圧倒する超一流のエンターテイメント性」と「登場人物たちの心象風景を巧く描いた泣けるストーリー性」の見事なまでの融合であり、それを“”に帰結させたクリストファー・ノーランの天才は、脚本力も含め、現代のハリウッドを代表する監督であることを、全世界に改めて証明してみせたのは確かだろう。両作品ともに、星(スターズ)の向こう側には何があったのか、その答えはあまりにも対照的だ。

 

ハリウッドスターの愛読書

 

以前のブログでも少しばかり取り上げた『ELLE JAPON』(2015年1月号)掲載の「本好き30人のこの本を読みなさい!」の特集には、『インターステラー』で主演を務めた<マシュー・マコノヒー>の愛読書は、オグ・マンディーノ著『地上最強の商人』、『マップ・トゥ・ザ・スターズ』に出演した<ロバート・パティンソン>の愛読書は、アメリカの女流作家<カーソン・マッカラーズ>著『悲しき酒場の唄』だと紹介されていた。

 

前者は、アラブの富豪ハフィドが“成功者になるための秘訣”をまとめた、元祖自己啓発本後者は、南部の田舎町にある酒場を舞台に繰り広げられる不思議な三角関係を描いた短編小説。私的にはどちらも興味はないのだが、他人が選ぶ本は、或る意味、興味深い。また、マシュー・マコノヒー本人についても、私的関心度は非常に低いが、彼は大学で心理学と哲学を専攻するも、俳優に転向したキャリアの持ち主だと同誌に紹介されており、彼の「僕にとっての人生哲学。高校生のとき読んで、のめり込みすぎて試験を受け忘れそうになった。人生の目標を見定め、演技に専念することができたきっかけ」という説明になるほどと感心した。

 

2014年の日本公開作品(洋画)に最も多く出演していた女優

 

前回のブログで取り上げた40数作品の傾向から、洋画に詳しい人であれば、俺の好みを読み取ったかもしれないが、俺が好んで観る映画は、そのときの気分や話題性には左右されず、監督、脚本、キャストを見極め、厳選していることに気付くはずだ。昨年、日本で公開された洋画の中で、4作品にキャスティングされていたのは、ジュリアン・ムーアスカーレット・ヨハンソンの2人だ。尚、全作品すべてのキャストを調べたわけではなく、もしかすると4作品以上に出演していた俳優がいるかもしれない。他に気になったのは、カナダの女優<サラ・ガドン>が『マップ・トゥ・ザ・スターズ』『複製された男』『ドラキュラZERO』の3作品に、エイミー・アダムスが『アメリカン・ハッスル』と『her/世界でひとつの彼女』、ジェニファー・ローレンスが『アメリカン・ハッスル』と『X-MEN: フューチャー&パスト』の2作品にそれぞれ出演していたわけだが、『ドラキュラZERO』と『X-MEN』は、俺の趣味ではないので未見だ。

 

4作品に出演した・・・ジュリアン・ムーアは『ドン・ジョン』『メイジ―の瞳』『マップ・トゥ・ザ・スターズ』『フライト・ゲーム』、スカーレット・ヨハンソンは『ドン・ジョン』『LUCY/ルーシー』『her/世界でひとつの彼女』『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』がそれぞれの出演作だ。尚、ブログで感想を綴ったのは、『ドン・ジョン』『LUCY/ルーシー』『マップ・トゥ・ザ・スターズ』の3作品のみであり、『フライト・ゲーム』は、俺の趣味ではないので未見だ。誤解のないように付け加えておくが、スカーレット・ヨハンソンという女優に興味があるわけではなく、彼女が俺の興味ある作品に出演していることが多々あるというほうが正しい。その答えを見つけるなら、ジェニファー・ローレンス同様、スカーレット・ヨハンソンがハリウッドの人気女優であるからだろう、きっと。

 

基本的に、アメリカの中高生や大衆が好みそうな・・・アクション、アメコミ、ミリタリー(戦争)、ホラー、ファンタジー、アニメなどのジャンルは好みではなく、リアルな世界の人間ドラマを描いた群像劇や恋愛、そしてサスペンスが好みなのだが、近年はSFも興味の対象となって久しいが、人間ドラマを扱った作品でなければ、劇場に足を運んでまで、積極的に観たいとは思わないというのが本音だ映画は脚本が何よりも大事だが、ハリウッドがそのネタ探しに困っているのも確かだろう。先述した『複製された男』は、ポルトガルのノーベル賞受賞作家<ジョゼ・サラマーゴ>の同名タイトルの小説を映画化させており、興味深い作品ではあったが、エンディングの演出には言葉を失った(笑)が、小説は読んでいないが、小説のほうが面白い作品なのかもしれない。要するに、大学教授の危ない妄想に過ぎないが、ドラッグによる幻覚とは異なり、過去に囚われた男の白昼夢なのだ。

 


 

最後になるが、次回のブログ(後編)では、2015年上半期の私的なオススメ映画を取り上げてみたい。今年、日本で劇場公開される、私的に観たい洋画の多くは、ブログ冒頭でヘルマン・ヘッセの恋愛に関する名言を引用したように、上半期のそれは『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』を筆頭に、を描いた作品が中心となっており、それが昨年と大きく異なる点であり、ヴェリー・ロマンティックだ。

 

(後編に続く)

 

Have a nice day!