分かる、分からないの処でなく、、、 | 筋整流法 池袋道場のブログ

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分かる、分からないの処で、


分かるのが良いってのが、常識だ。


分かるのが、人間らしく、


人間以外より優秀であると、


より分かる者が、人間内でも優れていると、


分からないは劣っていると、、、


まあ、得意なとこの自画自賛な訳で、


それにしがみついているだけで、


他では殆んど劣っているから、


他の物には無い機能に固執するのだろう。


そもそも同じ土俵でないのだから、


比べるのもなんなんだけど。


それを持っているのが特性ではあるが、


必ずしも長所として機能しているわけでもない。


むしろ分かることで分からなくなるといった、


短所になっているとも言える。


悟りとは、


分かる、分からないの処で、


分かる事でも、分からない事でもなく、


全く違う処で、分からない事だ。


それが、分かっているという事だ。


そこで、分かる事がではない。


もし、分かる側から、あえて言うなら、


分けられないままでいいと、


心底、諦め、納得、覚悟している事。


しかも、それすら無い事。


そもそも、分かる分からないの処は、


どんな役目なのか?


名付け、分類し、地図化する機能だ。


マッピングなのだ。


しからば、ほぼ全部、


越権中ではないか?


この越権が、自他を不幸にしている。


それが加わって、より良くなったのではなく、


余計なことが負荷された。


分かることによって、


分かっていなくなった。


その事は、人間以外にも大きな負荷を負わしている。


個人内でも、社会内でも、


マッピングに囚われるのだ。


いつの頃からか、


この機能は、


支配者に変わる。


気付かぬ内に。


自分が、命令する者と、従う物に、分けられた。


マッピング化された世界の中で生きる囚人だ。


そうなると、さらにその中で洞窟を堀り、


仮想現実が創られる。


ゲーム化された世界で、さらにゲームが作られ、


キャラとして、化けて出る。


以前、僕が書いた 識 の方が、


むしろ空想で、親しみのあるものではなく、


インターネットや、AIの方に親しみがある。


識より、普通に、AIが好き?


そりゃ~分かる、分からないの処だから。


人間らしい。


その特徴である機能が外部化されたものだから、


響き合うのも当然だ。


訳分からないまま、繋がらずに通じてるようなことには、


信頼は置けないだろう。


今日書いたことの中にも、


個別に書きたいことは色々あるが、


又の機会に、、、