日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。
建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石清水八幡宮へ参ること自体は珍しい話ではなく、後鳥羽上皇の行動は前例踏襲である。しかし、規模が前例のない壮麗さ、そして、スケジュールが綿密でないとなると、周囲の人はただただ振り回されることとなる。
このときの石清水八幡宮への御幸について、後鳥羽上皇が綿密なスケジュールを立てずに行き当たりばったりで行動するつもりだとするのが当時の人の出発前の嘆きであり、ここまでは当時の貴族であれば理解できる嘆きである。
そして、ここから先は当時の貴族にはあり得ない嘆きが出てくる。
石清水八幡宮に参詣したことのある人ならばわかるであろうが、石清水八幡宮は山頂に鎮座する社である。つまり、参詣するには登山しなければならない。標高一四三メートルとそれほど高い山ではなく、また、古来より多くの人が参詣したこともあって、参詣のための登山道は整備されているため、輿に乗ったまま参詣することも可能だ。ちなみに現在はケーブルカーで山頂まで行くことができる。
話をこの時代に戻すと、皇族や貴族が岩清水八幡宮に参詣するときというのは、輿に乗って、すなわち、自分の足で登るのではなく従者たちに担がれて山を登るというのが一般常識になっており、このときの御幸に同行した貴族たちも輿に担がれて参詣するものと考えていた。前例を遡ると退位して間もなくの頃の白河上皇が自分の足で途中まで登ったことの記録はあるが、上皇が参詣するのに自分の足で最後まで歩いて登頂した例はない。
その前例のないことを後鳥羽上皇はした。
このときの御幸に同行した者として以下の者の名が確認できる。
上達部 | 権大納言土御門通親 |
上達部 | 権大納言藤原頼実 |
上達部 | 権中納言花山院忠経 |
上達部 | 権中納言検非違使別当源通資 |
上達部 | 権中納言中宮権大夫藤原公継 |
上達部 | 権中納言西園寺公経 |
上達部 | 参議土御門通宗 |
上達部 | 従三位侍従藤原親能 |
上達部 | 従三位右兵衛督坊門信清 |
院別当 | 藤原伊輔 |
院別当 | 高階経仲 |
院別当 | 持明院保家 |
院別当 | 藤原高通 |
院別当 | 四条隆衡 |
院別当 | 日野資実 |
院別当 | 滋野井実宣 |
院別当 | 藤原経通 |
院別当 | 藤原知光 |
院別当 | 九条長房 |
院別当 | 葉室光親 |
院別当 | 藤原宗方 |
院別当 | 源有雅 |
院別当 | 四条隆親 |
院別当 | 坊門忠信 |
院別当 | 飛鳥井雅経 |
院別当 | 藤原長兼 |
六位蔵人 | 源家長 |
六位蔵人 | 藤原忠綱 |
北面の下臈 | 源康実 |
北面の下臈 | 大江公澄 |
北面の下臈 | 源成実 |
北面の下臈 | 平保盛 |
北面の下臈 | 後藤基清 |
北面の下臈 | 五条有範 |
北面の下臈 | 藤原能兼 |
北面の下臈 | 藤原信弘 |
北面の下臈 | 藤原盛能 |
北面の下臈 | 藤原俊清 |
彼らは後鳥羽上皇とともに牛車に乗って石清水八幡宮の麓まで来て、後鳥羽上皇とともに高良社を参拝した。いかに貴族であろうとも高良社への参詣はさすがに牛車から降りて歩いて行く。しかし、その後も歩き続ける、いや、登山するとは夢にも思っていなかった。まだ一九歳と若く、また、武芸を嗜んで身体を鍛えることも趣味とする後鳥羽上皇は石清水八幡宮への参詣は苦労せず、実際に軽々と山頂への参道を歩いて行ったという記録もあるが、同時に、後鳥羽上皇に付き合わされた貴族達が息も絶え絶えになってようやく石清水八幡宮に到着したという記録もある。