貞観一九(八七七)年四月九日、大極殿の再建工事が始まった。こういった国の施設の工事は当然ながら国が行う。国が行う工事であるためその記録も残っている。斉衡二(八五五)年の地震で大仏の頭部が壊れたときは賀陽親王を派遣するなど国としてかなり強力な体制を整えたが、大極殿の再建はそれほど強力な体制ではない。
工事責任者は左中弁の藤原春景。これに、木工権頭、今で言う国土交通大臣である藤原維邦が来る。ただし、役職こそ国土交通大臣に相当するが、その地位は従五位下、つまり、ギリギリ貴族ではあるが消して高い役職ではない。このあたりが、この時代の公共事業に対する認識と言えよう。
その代わり、重宝されたのが神頼み。今でも建設の開始と終わりには御祓いをしてもらうぐらいするが、このときは伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社、松尾、平野、稻荷などの神社にお祓いをさせた。
また、こういう国の工事をするときは成功を祈願して何らかのアクションを起こすことがある。意図的に慶事を作り出し、慶事をともに祝うという名目で四月一一日には八名の者を出世させ、四月一六日には年号を貞観から元慶(がんぎょう)に改元させた。
この新しい年号の開始である元慶の歴史は渤海使の出迎えから始まった。
ところがここで一悶着あった。
前回の渤海使の来日は貞観一三(八七一)年。渤海使の来日は一二年ごとと決められているのでこれは定例の渤海使ではない。やってきたのだから迎え入れるための人の派遣はしたが、渤海使を平安京に招くかどうかが問題になった。
黄巣の乱もあって唐の情勢が混迷を極める中、渤海との関係を維持するためにも渤海使を受け入れるべきとする意見と、一二年に一度を守らなければ日本の財政に大きな負担をもたらすことになるとする意見である。
出迎えに行った大春日安名らからの連絡が届いたのは元慶元(八七七)年四月一八日になって。現在の感覚では遅いが、当時としてはこれが通常のスピードである。
渤海使は国の正式な使節として来日しており、大使の楊中遠は渤海国王大玄錫からの正式な書状を持参していた。
この渤海使を出迎える日本側の作法や外交上の礼儀は完璧であった。位の低い者が出迎えに来るというのは本来ならば失礼に値する行為なのだが、そのものは誠意あふれる対応で接した。また、渤海語を完璧に操り渤海との交渉のエキスパートとなっている春日宅成が後ろで控えており、かつ、春日宅成自身が無名の若者として渤海との交渉に当たり、渤海との応対で絶賛されたという前例があることから、今回も無名の者が出迎えに来ることを渤海側も当然のこととして受け入れていた。
このときまでは通常の応対である。ただ、そこから先が定まらなかった。
予算を守って外交の孤立を選ぶか、外交を守って予算に苦しむか。国論が二分されたのである。
にほんブログ村


