世界中を回る聖火リレーが始まった時から何かと問題も話題も多かった北京五輪が
とうとう最後の日を迎える。始まってみれば、あっという間だった。
公害汚染で世界記録は生まれないだろう、なんて言われたけど、
世界中を驚かすような記録が数々打ち出され、人間の無限の可能性を見せてくれた。
日本の選手だって頑張っていっぱいメダルを取り、日本のみんなに元気を与えてくれた。
良い面、悪い面、いろんな事があったけど、やっぱり4年に一度の大イベント、
多くのドラマと感動で世界中が沸いた事には変わりは無い。

競技に挑む選手達を見ていると色んな事を考える。
例えば野球。韓国戦もアメリカ戦も何だかお葬式ムードで、
選手たちは持てる力を存分に発揮して頑張った、というが、
力を持っていても、何かに気持ちが囚われていると自由に羽ばたけないのだなあと
つくづく感じた。色々背負いすぎていると(期待とかプライドとか)不自由になるって、
まさにこの事ではないか?って。
失うものが無い人が強いというけど、本当にそうだ。
それで強かったチームに選手に・・・。
もちろん、その選手達も気負った選手たちも同じように努力して、キツイ練習に耐え、
みんな其々に備えてきている。でも、肝心な時に十二分に力が出せなくなるのはどうしてだろう?
でも、たとえ色々背負っていても、気負いすぎる事なく限界に挑める、挑戦できるって
どういう気持ちのスタンスを取っているの?そんなことを考えずにはいられなかった。

この年になったらこうしていないといけない、そういう世間体をやっぱり気にするという話をした時に
アメリカ人の友人はこう答えた。
日本人は周囲がどう見るかが自分の基準だからそういう風に考えるんだ。
僕にはその考え方が全くないから、気にならない。人がどう思おうが自分は自分。

周囲に期待され、それがプレッシャーとなってつぶれやすくなるのは
自分の意識が人の評価に軸を置いているからではないだろうか?
周囲と自分とを比較し、自分の位置を自覚させ、人と人の間に立って、
無難に、柔軟に適応するように子供の頃から知らず知らずに英才教育されている日本人。
その器用さが裏目に出てしまう事があるのかな。

選手達が見せてくれる様々なドラマはまるで人間の心理を映す鏡のようだから、
自分に当てはめて色々考えてみる良い機会になった。
何はともあれ、選手の皆様、お疲れ様。
たくさんの感動をありがとう。
そして、何よりもおめでとう。

これって日の丸に見えません?                  from: everystockphoto