前回の記事では、人間を外見で差別する一面を持つ我が国のバレンタイン・デーという恥ずべき風習について、私の正直な感想を書いたが、日本人を愚弄(ぐろう)するような記述に不快感を覚えられたムキも多かったかもしれない。
しかし、そのような記述の裏にある私の、この国家の一員であることを誇らしく思いたいがゆえの、憂国の念を汲み取ってくださった方も少なくないだろう。
日本では、214の語呂合わせで「ふんどしの日」でもあるらしいバレンタイン・デーについて書いたついでに、なんとも季節外れのネタではあるが、今日は、やはり国の在り方を愁(うれ)う思いに動かされて、「日本のクリスマス」という、これまた実に奇妙で愚かしい風習についても苦言を呈しておこうと思う。
書きたいことは次々に頭に浮かんできて、おそらく長い記事になりそうなので、何回かに分けることになるだろう。
などど言いつつ、実は単なる徒然の気慰みに書き始めたようなものだが。
いや、むしろ、今まで誰にも告げず胸の奥にしまい込んでいた鬱屈(うっくつ)した思いのすべてをブログ記事という二次元の姿に変えることで、自分史のささやかな断片を未来の自分に残しておきたいのかもしれない。
なーんちゃって、我ながらちょっとキザで、ヤな感じだなあ・・・。
クリスマスは、奇妙で愚かしい行事なのか。
すっかり日本に定着しているイベントであり、ニッポンの風俗と文化の中に織り込み済みではないのか。
たしかにその通りだ。日本人がクリスマスを祝うのは当たり前かもしれない。
日本人は、世界にもほとんど例を見ないほど、同じ国の人間同士がよそよそしい国民だが、クリスマスともなると、まさに国家が一丸となってこの行事を祝う。
そして、年に一度のこの大イベントは、いくつかの点で、まさに日本人の国民性を象徴しているような事例だと思う。
自分自身の価値観や信念を持たず、右顧左眄(うこさべん)しては周囲の雰囲気に同調し、マニュアル通りの集団行動をとりたがり、個性に乏しく、西洋の真似ごとをするのが大好きでありながら、それでいて国際感覚には欠け、想像力にも欠ける。
このような日本人の性向が、クリスマスという行事に集約されている感がある。
毎年12月に入って街角にクリスマスの飾り付けが始まると、キリスト教の国でもないのに、若い世代を中心に、日本中の人々がソワソワし始める。
まるで、チーンというベルの音を聞くと、ヨダレをたらしてシッポを振るパブロフの犬である。
キリスト教の信者ではない人々がクリスマスを祝う、ということを異常な事態だと思っている日本人は、ほとんどいないように見受けられる。
日本には、プロテスタントとカソリックその他の宗派を合わせて、約130万人のキリスト教徒がいるらしく、その数はわずかに国民全体の1パーセントに過ぎないが、この人たちがクリスマスをその伝統と流儀にのっとって祝うのは、まったく自然なことだ。
東京ディズニーリゾートで、アメリカ生まれのミッキー・マウスやドナルド・ダックたちがクリスマスを祝うのも、やはり当然だろう。
しかし、残りの99パーセントにあたる、キリスト教とはまったく無縁の、しかもキリスト教の何たるかさえほとんど知らない人々がクリスマスを祝うのは、実に異常なことである。
我々日本人は、まずそのことをしっかり認識する必要があるのではないか。
そもそもキリスト教とは、そしてクリスチャンにとってのクリスマスとはどのようなものか、手短かに敷衍(ふえん)してみれば次のようになるだろう。
キリスト教は、唯一無二の存在である創造神と、その子供であるイエス・キリストの説いた教えを信じる宗教である。聖書はその聖典だ。
アメリカ人などが「オー・マイ・ガッド! Oh, my God ! (何てこった!)」と言うときの「God」は、この唯一神を指す。
神は全能であり、人知を超えた存在なので、たとえ何十億人もの声にも同時に耳を傾けることができると考えられており、「my God (私の神様)」という表現も成り立つ。
プリンストン大学の宗教研究所が、アメリカ人の宗教観や宗教的動向を調査して毎年発行している冊子「 Religion in America (アメリカにおける宗教)」によれば、アメリカ人の95パーセントが、神の存在を信じている。
そして40パーセントの国民が、日曜日の朝に地元の教会へ礼拝に出かける。
ただしこの日曜の礼拝には、地域住民の社交を目的とした寄り合いの性格も含まれているようだ。
キリスト教を「国家の背骨」と位置づけるアメリカでは、神の存在を信じることは、というより、神の存在を認めることは、ほとんど国民の常識になっている。
アメリカのドル紙幣と硬貨には、聖書の詩篇からとった「IN GOD WE TRUST (我ら神を信ず)」という文字が明記されているが、これは、神を信じることはアメリカの国策のひとつである、と受け取ることができる。
クリスマスは、神の子イエスの誕生を祝う儀式である。
その日が12月25日であるのは、いわば教義上の決めごとであり、必ずしもイエスがこの日に生まれたという確証はなく、その日付については誰も知らないらしい。
クリスマスには家の中にツリーを飾り、家族が一堂に会するのが通例である。
カソリック教徒の多くは、クリスマスの朝に教会へ行き、神に祈りを捧げる。
カソリックでなくとも、ほとんどのクリスチャンにとって、クリスマスは神とイエスに感謝の祈りを捧げる日である。
何を感謝するかは個人の自由であり、単に神の祝福を願うこともある。
たとえ外国で働いていても、クリスマスになると子供たちは両親のもとに集まることも多い。
クリスチャンにとってのクリスマスは、ただ12月25日を指すのではなく、おおむねその数日前から、新年の1月2日頃までの期間を意味し、「Christmas Holidays クリスマス休暇」と同義にとらえられている。
アメリカの多くの学校では「Christmas break クリスマス休み」があり、クリスマス前後の2週間ほどが休校になり、そのあと新年の1月3日からまた学校が始まる。
12月に入るとアメリカでは、クリスマスへのカウントダウンがテレビのニュースなどで始まり、多くの家庭で、クリスマスのイルミネーションを家の外に飾り始める。
郊外の住宅地などでは、たくさんの家が色とりどりの電飾で飾られ、夜になると遊園地さながらの華やかさを呈する。
欧米のクリスマスは、親から子へ、子から親へ、そして夫婦、友人、恋人同士などがプレゼントを贈り合うため、クリスマス商戦も盛んであり、クリスマスが近づくと、サンタクロースの姿を街のあちらこちらで見かけるようになる。
アメリカでは、クリスマス商戦は戦後まもない頃から加熱し始めていたようで、クリスマスの精神が忘れ去られつつあることを嘆く人も多かったようだ。
そのあたりの事情は、1947年に作られたアメリカ映画「三十四丁目の奇跡」の中で巧みに描かれている。
自分は本物のサンタクロースだと名乗る老人がニューヨークの街に現れ、ついにはその真偽を問うための裁判が始まってしまう、という内容のこの映画は、アメリカやヨーロッパで、クリスマス・シーズンになると必ずどこかのテレビ局で放映される定番人気作品である。
さて、我が国のクリスマスは、いったいどのようなものか。
日本人の、日本人による、日本人のためのクリスマスは、いうまでもなく本家キリスト教徒のそれとは、まったくおもむきが違う。
ありていに言えば、ゾッとしてしまうほどそのバカバカしさは年々エスカレートしていき、クリスマス・シーズンともなると、果たしてこの国に誇るべき未来はあるのだろうかという危惧さえ覚える。
特に若い世代の人々にとって、クリスマス・イブは、一年のうちでもっとも重要な日のひとつである。
やれ「イブまでにゼッタイ恋人を作んなきゃ!」だの、「イブは誰と過ごすの?」だの、「クリスマス・ディナーはどこのレストランにする?」、「シティ・ホテルに部屋、予約しといた?」などなど、なんともくだらない会話が交わされる。
いったい何のためにそんな益体(やくたい)もないことをするのかと聞かれたなら、おそらく彼らは、「他のみんなもやってるから」とか、「ニッポンのジョーシキじゃん」とでも答えるかもしれない。
(つづく)
※「迂愚のクリスマス(2)」を読む →