ワハハむーむーさんの脳腫瘍闘病記編

ワハハむーむーさんの脳腫瘍闘病記編

よく笑い、よく生き、よりよく死ぬことがモットー  
『たかが頭痛が脳腫瘍!』になってしまったワハハむーむーさん  
それから、それから、、、、

こちらでは初めまして ワハハむーむーです

あちらこちらで出没しております(-^□^-)


☆ たかが頭痛が脳腫瘍!!

http://plaza.rakuten.co.jp/junko8753/   

最初のブログ・本店です。6年前に開業しました。


☆ 掲示板『脳腫瘍患者の広場』

http://wahahamumu.bbs.fc2.com/  

管理人は私がやってます(//・_・//) スミマセン


☆ ワハハさんの独り言
http://blog.goo.ne.jp/wahahamumu  

myセカンドブログです。

興味があったらのぞいてやってください。


こちらアメブロでは、私の脳腫瘍(海面静脈洞髄膜腫)のことをぼちぼちと書いていきます。
どなかのお役に立てば幸いです。以下簡単にmy脳腫瘍の病歴を


  2000年 2月  開頭手術 同年 3月  ガンマナイフ照射

  2004年 4月  再発 ガンマナイフ再照射

  2008年 10月  腫瘍増大 ガンマナイフ照射

  2010年 現在 経過観察中 


Amebaでブログを始めよう!
ガンマユニットセンター に行ってきた

MRI検査

結果4.5cc

4ヶ月前は46cc、その前は4.7cc

だったような

先生は、計測誤差の範囲と言えるかもって。

(少しずつ小さくなってるのかもよå

次の検査は6ヶ月後の予定になった

オーケー、オーケー もし再燃するとしたら
私の予定ではオリンピックの年なんで、
あと2年ありますから

と言ったら、先生


怖いこというなぁ、、、


ブハッ


だってそうなんだもん


2000年のオリンピックの年に最初の手術&ガンマナイフ

そして4年ごとの再発  
ここの日記



でもさ、年齢が上がっていってるからわからないね
大きくなるのがゆっくりゆっくりで
それよりも消えていくほうが速くなって
そのうち本当に消滅してしまうかも



アハハハハハ



わからないから面白いんだよ




ひさしぶりに日記の更新をしてみよう。


どこまで書いてたんだっけ・・・。


こっちはぽちぽちとやるんだ。マイペース、マイペース。


って私のどのブログもそうだけどね ぷ


ここは闘病記だ。


私は闘病してるんだよね。いちおう。


目が疲れておかげで身体全体が疲れる。


左目がふさがっていくみたい。


視力はかなり落ちてる。両方の視点は合わない。


顔面左側はしびれたまんま。


気にしてるとイライラする。


だから考えないようにする。


楽しいことだけ考えるように努力する。


努力しなきゃならないんだよね。


こういうこと書くのも本当は好きではない。


不満や不足を大変、大変っていっぱい書いてて

それが解消するのなら


た~~~くさん書いてやるさ。


でもね、そうはいかないから書かないのよ。言わないのよ。


慣れてる場所の移動ならいいんだけど


慣れない場所の移動はめっちゃくちゃ緊張する。


だから、今日は出かけるぞ。


って気合い入れて、出かけ、


出かけ先では、


”もう限界だ~”


っていつも思ってるんだけど


帰ってくると


よぉーし! 今日もやったぜ!p(^-^)q


って満足してるんだよね。


& へろへろ(爆)


これでよく仕事してるよ。私。


えらい。私。( ̄^ ̄) エッヘン



(過去の闘病記の続きはまたのちほど)







10年前を思い出しながら


5年前に書いた他ブログの日記を直し直し


ここにまとめていた闘病記


まだ始めのところなのに


ああそれなのに、もう飽きてきた(爆)


どうしよう~~~~



闘病が始まるのはこれからだ


ああ、それなのにそれなのに・・・


だいたい、闘病ってなんだ


私にとって闘病ってなんだ?



私にはそんなもんない



私には私の生活があるだけ



穴が開いてたから落ちただけ



倒れたら起き上がるだけ



Never Give Up!!



前夜は普通に夕食をすませ緊張もなし。


看護婦さん、T先生、N先生、それぞれが

「睡眠剤 出しましょうか?」

と聞きにきてくれた。

、「いいえ、大丈夫です。」

だから眠れたのかというとそれはべつ。
熟睡するという経験をそのころは忘れていた。
だからきちんと眠っておかなければということも。



手術は顕微鏡手術だそうだ。
若手のT先生がやると言っていた。でも10時間ずっと一人で??
勿論N先生もずっといっしょにいた。
たぶんM先生も。

(前日、T先生あとからM先生も来てくれるでしょうと言ってた。)

私にはなにもわからない。


夫と母が、

手術がおわってからすぐにN先生T先生から説明を受けた

と言っていた。


そのことを私が聞いたのもずっと後からなので何が何だか私にはわからない。



”取れるだけできるだけ取りました。新しい機械を、使ったので、
そのぶん時間を短縮できて、負担が軽くなりましたでしょう・・・ ” 


とか、、、


N先生は教授で、M先生は助教授 


なんかこれだけで、すごそうで、こわそう。


だけどぜんぜ~ん。すごいけど、こわくない。優しい。



当日朝8時30分、手術室に入る準備完了!
 

夫と母が来る。けれどエレベーター前まででおわかれ。

T先生が病室まで迎えにきてくれて、エレベーターに看護婦さんたちと
一緒に乗り込み私とおしゃべり。

朝コンビニで、おにぎりを2個買って食べたとか・・・

私、「先生、あそこのコンビ二わたし知ってる、、でも手術時間かかるのに、ふたつで足りるの? 」

とかなんとか言ってるうちに、手術室到着。

T先生 「着替えてくるからね」( 白衣から手術着に )

私は名前を確認後、あっというまもなく意識がなくなった・・・・・・・


こうして次にT先生とわかったのは何日後なのかはっきりと覚えてない。
でもそんなには、たっていない。



ICUで私に声をかけて先生が ニコッ としたのを覚えている。

その次は病棟だった。

「こんなに暗くちゃだめだよ、光いれよう。」


と言って先生がカーテンをさっと開けたのを覚えている。



それから ICUにて、私は超わがままに看護婦さんを困らせ、
「こんなところにいるのは嫌だ!」と言い、
いろいろな機械をくっつけて、チューブだらけのまんま、病棟に移されてきたのだった。

でもこれには言い訳になる覚えがある。(これは、ハッキリ。)


のどが渇いてしかたなく、意識が戻った時にうったえると、看護婦さんが氷を口に含ませてくれるのはいいのだけど、ほんの少ししか口が開かないのに氷を砕いて含ませてくれなくて、こりゃ地獄だー!と感じたわけで。


注意 : 患者に氷を与えるときは砕いてあげましょう。



ICU にいた時のこと、おかあさん自分で息をしてなかったみたいだった。
機械が、すーはー、すーはー、ピコ、ピコ、ピコ、ピコ、って、、、りょうくん(弟)なんて一度来ただけで、
怖いって、もう入れなかったよ、、、、、と、ずっと後から聞いた娘の話。



幾日目か、つながっている一つの機械を止めて、
T先生、私の足の付け根のところからの、管を慎重に抜き、
またいつかのように、私に見せる。

「ほら、これ心臓まで入ってたんだよ 」

私、「ふーん、へーぇ、、、先生、今日なんようび? 」

先生、「日曜日だよ 」

私、「じゃ、おやすみじゃないの? 」

先生、「うん、これで午後は帰れそう 」

私、「・・・・・・・・・・・・・」



(先生、もしかして泊り込んでた?)



続く





ここからは記憶がとんでたり、意識がなくて私が知らないこともある。
後になって家族や先生に聞いたこともある。
それをわかるままに書こう。

----------


脳血管造影検査が終わった翌日、教授のN先生が初めて、
私のベッドのところにみえた。
名前だけは知っていたが、お顔は拝見したことがなく、
私は目が悪くて名札が見えずに困っていた。が、先生のほうから

「Nです。今日から私が担当します。」

と言われたのでよかった。

それから毎日T先生N先生 は、ベッドサイドにきて様子をみたり。
N先生が病気の説明を簡単にしてくれるのだけど、
簡単過ぎてよくわからない。

下垂体腫瘍ならこんな手術法でしますが、あなたの場合は髄膜腫 ですから、
それはやめてこうしましょうとか・・・

いま思い出すと、笑えてくる。
なにも分からない人に、先生だって説明のしようがないでしょう(笑)
今だってよく分かってないけど、4年半経って、その間にすこしだけかじったのと、

自分の体のことなら興味深々。だって敵を知らなければ・・・ねぇ・・アハハ・・・


勢力を伸ばしてくるやつには、こっちだって、
それなりに先生たちの助けを借りたりして対処する。スクラム組んで。


N先生  「4月から予定があるそうですから、それまでに退院できるように早くしましょう。」


( 私  「うん? なんで知ってるの?」)


N先生  「木曜日が大手術の日なので、2月17日の木曜日にしましょう。」


(私  「うん? 大手術って? 誰のこと?、、、、私のことらしい、、、、」)


ということで、素直で従順なワタクシ(笑)の手術日は、真近かな日の2月17日に決定。


考える暇がなくてよかった。考えてもおなじ。


2月15日(手術前々日) 


 「これをやっておかないと、手術は受けられないの、、、」

と自分の都合ばかりを、いつものように言い、
小さな店の奥さんは、閉店後のタイムカードを、娘に持ってきてもらい、
給料計算のやり方を、娘に教えた。
ほかの経理の間に合わせ的なことは言ってきたが、これはやってなかった。
同室の方たちは皆寝ていて時間も遅いため談話室にて。


2月16日(手術前日) 


お昼前に看護婦さんに剃髪をしてもらった。
おわってから鏡を見て、はじめての自分の坊主あたまに、

「うわぁ、一休さんみたいーッ!」

と言ってしまった。が、そんなに可愛いわけない。年を忘れてた。


部屋にもどってから、やってくる人にみんなに

『 わたし、悟りをひらきました 』

と言っていた。ずうずうしけど、どうせだれも信用しないので。
それに全くのウソだった。

午後になって、九州の実家の母がやって来た。
これでmy娘はだいぶ楽になる。
家事の手伝いをしてもらえるのだ。

一緒にやってきた私の姉に、私。

「 明日、わたしロボコップになるの 」

と言っていた。
これは、そのときの先生たちには、絶対に聞かせるわけにいかない冗談。


手術のあとは必ず ICU (集中治療室)に入るので、見学に行ってきた。
でもぜんぜん現実感なし。翌日だというのに。

それから、麻酔科の先生が説明にみえた。
手術室担当の看護士さんも説明にやってきた。
この日は、めっちゃくちゃいそがしいなぁ・・


夕方、夫と私の二人で、N先生 から手術の説明を受けた。
どの方向から開頭するかとか、どの神経が切れてしまったらどうなるかとか、
たぶん詳しく説明していただいたと思うのだが、あまり覚えてない。

夫が帰る時にエレベーターまで見送った。
その顔が、まるで幽霊のようで、あとから家に電話をして息子に聞いた。

「 お父さん無事に着いた?」




続く



(この日記は2004年に書いたもの。2007年に夫は先に死んでしまった。)




脳血管造影検査 が終わったのは夕方近くだった。
院内に家族がいなければならないので、病室に戻ると夫と娘が待っていた。

T先生 も看護婦さんと一緒に病室まで送ってきて
ストレッチャーからベッドに私を移してくれた。

「 先生、自分でうつれそう、、」

というと、先生

「 ううん、だめだめ 」

(と、看護師さんでなく、T先生が移してくれた)



それから翌日の朝まで、同じ姿勢で動いてはならず、
カテーテルを入れたあたりは、氷で冷やされて冷たく、
勿論自分でトイレにも行けないわけで、夕食は寝たまま、娘に食べさせてもらった。

おかげで翌朝 OK が出たときは、すっごい開放感 \(o⌒∇⌒o)/

この後2月17日の手術まで、やり残した眼科の検査に行ったり
MRI を撮りに呼ばれて行くくらいで、
べつに特別なことはなし。

私は同室の人達とおしゃべりして楽しんだり、
お見舞いにきてくれた友人と、10階にあるレストランに行き、
お茶を飲んだりして過ごしていた。

そして娘が毎日仕事場から運んでくる伝票のチェックや、
事務関係の仕事をベッドでやっていた。

役所や銀行には自分で行けないので、それは電話で命令し、
家族の世話もできないからしなくていいし、

のんきで楽しかったぁ~(^^)v

この時期、先生たちは、大きくなってる私の脳腫瘍をどうやって摘出するか。
この良性腫瘍でも固いもの。最悪の場所に浸潤してきている脳腫瘍。

どこからどうやってメスをいれようかと考えていたみたいだった。



当の本人の私ははこの時期天国だった。*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

予定の手術の不安などは全然なく、
それより病院にいて、いろんなことから離れられ、
眠りたくなったらいつでも横になれるということが嬉しくてそれを満喫していた。
それくらいそのころの私は、疲れていたんだな。
脳腫瘍ってものはひとごとで、、、私はただただ休みたかった。



続く




 

 2月7日午前10時までに病院に入る。
朝家を出る時、隣に住んでるお母さん(夫の母)が縁側から見送り。

私は 「 いってきまぁーす!」 と元気に出発。
この時のことを、ずっと後まで何度も義母に言われることになる(笑)

「なんで、あんなに元気よく出ていけたのかなぁ?
まるで旅行に行くみたいにしてさぁ、、、」


その後、義母は同年の秋(10月末)に大腸ガンで、手術を受けた。
その時の義母は不安で、やりきれなく、かといって止めるわけにもいかず、
私のことを引き合いによく出していた。

手術を目的の入院なのに、それも脳の。
あまりに明るい私の顔が信じられなかったって。

これが普通なんだろうな。
他のガン患者の話なんかを目にしても、たいていの人は最初告げられた時、
ショックだった、がぁ~ん!って言ってるもんな。
でも私の知人の乳ガンの人も、私と同じように元気だった。

あとから知り合った脳腫瘍(聴神経腫瘍)の女性もそう。

ショックでないことはないのだけど、ほかにもっと考えなきゃならないことが先にあるもんで、そればかりを考えてられないっていうのかな。



 さて入院1日目の夜、担当医になる若手の T先生 が病室にやって来て、
翌日行われる、脳血管造影検査の説明。

これは足の付け根のところからカテーテルを入れて、造影剤を点滴しながら、
脳血管の写真を撮る検査。

そのときの説明では、所要時間は1時間から、場合によっては2時間か3時間という事だった。
私の場合、実際にかかったのは3時間。(ってことは、私はなんの場合だったのだろう??)

「 そしてこの検査は危険も伴います。1000人に1人の割合で亡くなることもある検査です。
でもこの検査をしないで手術に臨むほうがもっと危険なので、やりましょう。」


という T先生 の話。

思い起こせば T先生 はおもしろい人だった。
私のところへやって来るたびに、必ず笑いをとっていった。
それは手術が終わって退院するまでそうだった。
私が笑うまで部屋から出て行かないようだった(爆)
関西弁だったからきっと吉本興業出身の脳外科医だったのだろう。

一年後に脳浮腫(脳内がはれて、脳圧が上がる)がおきて入院した時も、
その時の病棟担当医は別の美人の女医さんだったのに、T先生も毎日顔を見せてくれた。
(初診の Dr.Mもよくきてくれた )

4年半経った今、あのお笑い系の T先生 や、
若くて美人の女医さんもどこかへ移ってしまって残念。

N・M女医先生 は私がお見舞いにお花を頂いたのに花瓶がなく困ってる時、
先生が自分の花瓶に水を入れて持ってきて、貸してくれたことがあった。嬉しかった。

T先生 は私が退院して半年以上たったころ、
外来待合室で待っている時にたまたま何かを取りに現れ、
T先生は外来は担当してないので普段は外来に降りて来ない )、

手術途中かなにかで、誰かの頭を開けた途中で来たみたいに、急いでたのにもかかわらず、
私のところへ近づいてきて、私の術後の変化を診ていった。
そして手術の時に丸坊主にした私の頭に髪の毛が生えそろい、

茶髪にしてるのを見て、

「 どこのお姉さんかと思った 」 


と私からまた笑いをとっていった。(‐^▽^‐)

                               

  脳血管造影撮影の検査Dr.TDr.M、(他にもたくさんのスタッフがいた)
でおこなわれた。Dr.Mは横で指導していたみたいだった。

局所麻酔なので、私の意識はある。
血管がやぶれないように慎重に、とっても神経を使う作業だと思うのに、
Drは私の気持ちが楽になるような話をしながら、
そして脳内血管を写し出すテレビの画面を見ながら、手を動かしていた。

もし、手術の途中で静脈が切れた場合の時、一時的に静脈の流れを止めないといけないので、
その場合血液は、どんなふうに広がって流れるかを見るために、
首の左側をギュッとしばらく押さえた状態での写真も撮った。
なんか首を絞められたみたいだった。

でも終わってからカテーテルを抜いた時はDrもほっとしたんだろうな。

「ほらこれが入ってたよ 」

と私の目のまえにカテーテルを掲げて、見せてくれた。

「先生、写真撮ったの?」

「うん、いっぱい撮った 」

私、ピースするの忘れた。。。

この検査の時間が長くかかったせいかこんな事もあった。
途中で尿意をもよおして、我慢できないのでDrに訴えたけど、
すぐに手を休めることはできない。

でもなんとか排尿できるようにしてもらい、女性の看護士さんが一人になり、
私は寝たまま、便器(かなんか)をあててもらって

「はい、どうぞ 」

と言われたけど、どうぞと言われても出ないよ。ほんの少しだけ。
それで結局終わるまでこの事で苦しかった(苦笑)。

次回は検査の前には水分を撮らないようにしなきゃなと思う。
あ、でもこんな検査はもういやだな。きっともうないだろう。



続く




☆ そして脳外科へ 3 ☆
 

しかしDr.Mの書かれた入院指図書の理由の欄に
『脳腫瘍』とあり。

わッ!なにこれ? なんか重病そう、、、

私はきっとドラマのヒロインだ!

ここでは泣かなければ

とトイレに行けども涙は一滴もでず。

その日は手術入院準備のためレントゲンや心電図だけをすませ
帰宅したとさ。



帰宅後、入院・手術の報告を夫や子供にしても、

「へえ、あっそう」くらいの家族の反応。

(もっと驚いて心配しろよぉ~。)

本人の私が こう"あっけらかん" では無理ないか(笑)

報告を聞いて驚いたのは、実家の母や姉、友人たちだった(^o^;)

予定を考えてみると、長女の新しい学校生活が4月から
ということに気が付き、Dr.Mに電話。

「 すみません、いつでもいいと言ったのですが、
やっぱりなるべく早くして下さい 」



一週間後の 2月7日 にベッドが空いて入院できますと、
病院から電話があったのはそれからすぐだった。



続く

☆ そして脳外科へ 2 ☆



さて、造影剤を使ってのたくさんの MRI 画像ができあがり、 Dr.M の診察室に呼ばれた。

画像をさしながらDr.M 

「 ここに できもの があるので、これを取ってしまわないと・・」

私は意味がわからず

「 とるって?」  

Dr.M   「 手術ですよ 」

 ( 外科医が取ると言ったら、手術にきまってるでしょ! 本当に笑える )

「 じゃ取ってください、お願いします。」


私は、反射的に答えてしまった。
どういう手術なのか、どいう できもの なのか、も聞かず。


その頃は、毎日が忙しく、


必要なことはさっさと済ませてやっていかないと何も進まない、

よけいな事を考えてる暇なんかない。
病気のことは私が考えてもどうせわからない。
医学の勉強なんてした事がないのだから、その道の事はその道のプロにお任せするしかない。


と思ったわけで。


どうせ聞いてもわからないのだから、Drに病気の説明も求めず、
家族に相談のことなんかも、まったく頭にうかんでもこなかった。

そして、さっさと一人で入院の予約もしてきたのであった。


盲腸の摘出手術くらいに考えていた。

1週間も入院したら元通りに仕事できるのだろう・・・・




「 手術の予定はいつがいいですか?」

と、Dr.M 


「 いつでもいいです、忙しくても、時間はつくりますから 」


と、私



超生意気な、いやぁ~なヤツ 私 キャハ♪




つづく






☆ そして脳外科 へ docnursetitle001.gif



それから3日後の1月30日月曜日の朝だった。


あの眼科医の先生と検査技師の二人のただならぬ顔が気になり、
書いてもらった紹介状をもって、朝一で脳外科に行った。

脳外科で初診で診てもらったのは 
Dr.M
Dr.M
は眼科からのCT写真を見、そして私の目の動きを診る、
という診察をする。そして、

「 MRI を撮らないと、でも、ここはいっぱいだからどこか・・」
 
と言い、すぐにパソコンで調べ、
近くの MRI 設置の脳神経外科クリニックを予約し、

「 MRI を撮ってもらったら、今日中にその写真を持って来てください。」


私は言われたとおりに、Dr.M の紹介状を持ってクリニックに行き、
MRI を撮ってもらい、今度はそのクリニックの先生が書いた手紙と画像をもって、
Dr.M の待つ大学病院脳外科へと戻る。

なんか思い出すと、自分ので自分の資料を運んでいただけななのだけど、
セ○ノー運輸のロゴの" ひきゃく " になったような気分だった。

もう夕方5時過ぎをまわり、病院は閉まっていたけれど、Dr.Mは待っててくれた。
そして画像を見、
 
「 ああ 動脈瘤 じゃなかった、そうだと緊急に手術をしなければならなかったので急いで MRI を撮ってきてもらったんですけどね・・・そうではないとなると、今度はここで詳しく MRI を撮ってみてからにしましょう 」
 
ということで、翌日の朝一番、脳外科に診察券を出し、
今度はそこの大学病院で、MRI を割り込みで撮れるのを待っていた。
そしてそれは、ほどなく順番が来て、画像ができあがったのも30~40分後だった。

なのに私はそんな事よりも月末の仕事が気になり、
用事が山ほどで、ほんの30分でも時間が惜しく、
待ち時間の間に一つでもと、用事を済ませようとしていた。

毎日頭痛で苦しかった私はこの時も痛み止めを飲んでごまかしていた。
頭痛がするということは私には普通の状態だった。
このころには薬も効かなくなっていて、ひどい状態だったのに。

それでもまだあの時の私は、体の心配より仕事 だったのだ。



追記


大学病院近くの脳神経クリニックを紹介して頂いた時、


私:「あ、そこなら知ってます。」


Dr.M:「行ったことあるんですか?」


私:「いいえ、行ったことないですが、あちらの先生がうちのお客様で、先生がうちに来てくださいますから。」


私とDr.M 二人でちょっと笑ってしまった。




つづく