「父の背中 母の背中(後編)」 独眼竜 伊達政宗 5 | 酔想 『歴史・雑学・お酒・本・パソコン・時事通信・etc』

「父の背中 母の背中(後編)」 独眼竜 伊達政宗 5

の続きです。
 
 政宗は、我が目を
その独眼を疑いました。

 「何を食べた?・・・・・・」
「そして、この痛みや苦しさは?・・・・・・・・・・」

 いや、痛みなどという、
生やさしいものではありません。
 まさに、生死にかかわる激痛。
この世の地獄。

 そして、まっさっきに駆けつけて、
介抱してくれるであろう母の姿を探し求め、

 あろうことか、うつむき、まぶたを閉じている
母を見つけました。

 そう、政宗は、母「義姫」に毒を盛られたのです。

 政宗22才の春でした。
 
 18才で、家督を相続し、父「輝宗」の死という悲しみを乗り越え、
わずか5年あまりで、南奥州を制覇し、破竹の勢いで進軍を続ける
「伊達政宗」

 まさに「仙道の覇者」にふさわしい快進撃でした。

 この短期間での制圧は、辺境の地の利ということを加味しても、
かの「織田信長」に、負けず劣らずではないか
と私は思います。

 「政宗が、あと30年早く生まれていれば」とはよく言われることですが、

信長1534~1582 
秀吉1536~1598 
家康1542~1616 
政宗1567~1636 

 信長が「40歳」の時に
 秀吉「38歳」
 家康「32歳」

そして、政宗は、わずか「7歳」

 “ 30年の「時の差」さえなければ、「政宗」が天下を取っていた。 ”
と言い切る人もいますが、私としては“ 疑問符 ”ですね。

 「政宗」大好きの私としては、そうあっては欲しいですけど、
「I F」イフの世界。
 空想することを楽しむこととしましょう。
昔、テレビゲームでは、散々天下を取らせてあげましたから(笑)(^_^)。

 ただ、戦国武将あまたいる中で、「信長」「秀吉」「家康」をのぞいて
天下を望めた武将となると
「武田信玄」と「伊達政宗」が、10指の中に、それも上位に入ってくる
のではないかと思います。

 「上杉謙信」は、領土欲がないため、はぶかせてもらえればですが・・・。
常勝「武田」 甲斐の虎「信玄」
不敗「上杉」 越後の龍「謙信」

 こうやって、書くだけでもこの二人は、絵になりますね。(^_=)

 この「信長」と「信玄」と「政宗」は、似ているといわれています。
正確には、「信長」と「政宗」
そして、「信玄」と「政宗」がですね。

 良き理解者としての父を持ちながら、早くに死に別れ。
母の愛情に恵まれず、肉親である弟を殺してしまう。
という悲しみを背負う「信長」と「政宗」

 辺境の守護大名の子として産まれ、
身内に敵(信玄は父、政宗は母)を持ってしまい、領国から追放。
信玄は嫡男を 政宗は弟を殺害。
どちらも宿敵(ライバル)に悩まされ続ける。
「信玄は、謙信」
「政宗は、最上義光」

 どうでしょう?
似ていると思いませんか(^^)

 話を黒川城(会津若松城)別称・・・鶴ヶ城にいる政宗に戻しましょう。

 破竹の勢いで快進撃を続け、宿敵「芦名家」も破り、名実共に「奥州の覇者」たらんとする「政宗」の前に立ちふさがったのが、
「信長」亡き後の後継者「豊臣秀吉」でした。

 当時、政宗の宿敵といえる「芦名氏」や「佐竹氏」は、すでに「秀吉」の
麾下、すなわち家来でした。
(実は、この二家は、兄弟です。詳細は省きますが、そのつながりには、「秀吉」が絡んでいます。)

 その「芦名家」を滅ぼしてしまったのですから、当時、天下人まであと
一歩の「秀吉」にとって、絶対に許せるものではありません。
 特に、勝手に戦はしてはいけないという「私戦禁止令」も発布しているの
ですから尚更です。

 この時、「秀吉」にとっては、九州征伐も終え、最後の仕上げで残って
いるのは、関東の雄「相模の獅子」北条氏のみでした。
 「小田原攻め」のはじまりです。ついでに奥州も攻め「政宗」の首も
はねてしまうつもりでもあったようです。

 しかし、「秀吉」は、「小田原攻め」に参陣すれば、こたびのことは不問に
付すと「政宗」に打診してきます。
この辺は、さすが「秀吉」、計算が早いです。(朝鮮出兵の頃には、脳みそ腐っていますが・・・汗(^^; ....。)

 「北条」ともよしみを通じている「伊達家」。
当然、援軍要請の使者も来ています。

 伊達家中は、もめにもめます。
決定打は、その陣立ての報告でした。
豊臣軍「21万」 迎え撃つ北条軍「5万」

 いかな、難攻不落の「小田原城」とはいえ・・・

 閣議は決定しました。
「小田原参陣」です。

 いざ、出立という前日、
母「義姫」(保春院)から、送別の宴に招かれます。

 予感は、少しはしていたのではないか・・・・
と、私は考えてしまいます。

 しかし、今回の参陣で、ひょっとしたら命を落とすかもしれない。
「秀吉」に、ていよく殺される可能性も少なくはありません。

 その前に、わだかまりを持ってしまった母と、ちゃんと話をしておきたい。
母も同じ気持ちなのではないか・・・
私との別れを悲しんでくれているのではないか・・・・

 そう思って、母の元を訪れたのではないかと思います。

 余談ですが、彼はのちに「自分の画や彫刻を作る際には、必ず両目を入れるように」と家臣に命じています。
 これは、親から授かった身体の一部を欠いたことを親不孝と考えたからだと言われています。
 彼の肉親への愛情のあらわれと考えて良いのではないでしょうか。

 しかし、母の気持ちは違っていました。
このままでは「伊達家」は、立ちゆかない。

 「政宗」を殺し、弟「小次郎」を立て、その死を持って「秀吉」に詫びを入れよう。   というものでした。
(これには兄の「最上義光」も絡んでいるといわれています)

 そして、悲劇は生まれました。
「母と息子」悲しすぎます。涙(ノ_・。)

 「政宗暗殺」に失敗した「保春院」は、兄の「最上家」に逃げ去ります。
弟「小次郎」には罪はありませんが、後顧の憂いを断ち切るために、
政宗は、自らの手で、弟を斬ります。

 悲しみの中で、しかし、悲しみに暮れている間もないままに、
予断を許さない小田原へ「政宗」は向かっていくのです。

母  
 ちょっと、私の思い出話を・・・

 「鮎」の香りは、「スイカ」の香りに
似ていると、よく言われますが、
 こう言う人もいます。

 “ 鮎の香りは、母ちゃんの
汗の匂いだ。
 暑い夏の日の夕暮れ、
遊び疲れた僕をおぶってくれた
母ちゃんの

 その母ちゃんの、汗の香りに
似ている。
 だから、僕は、鮎の香りが忘れられないんだ ”

 たしか、こんな感じでした。 

 政宗の見つめる夕日。
その独眼の奥にも、この光景が映って見えていたのかもしれません。

 遠い昔、母に愛され、抱かれていた日々が・・・
そして、その母の背中が。

                               第5部 完。

 p.s 今回の章を書き終えて。
赤ワインのボトルを開けました。
今日は、「デロー ボルドー・レゼルブ Bordeaux Reserve Rouge 」 
 いつも通り美味いですが、今日はやけに苦いです。

 ではまた。                    

 
 次は、小田原攻め参陣です。
「間に合うか?政宗!!」

 秀吉との騙し合い「猿と竜のばかし合い 」は、
次回の講釈で。