母の会活動の記録① | 栃木避難者母の会のブログ

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自分達の過酷な経験が無にされることなく、次世代に原発事故の責任を持つ社会になって欲しいので活動をしています。弱者が弱者のまま、社会正義が堂々とまかり通る社会を夢見てます。「私」達には、地球の所有権があり、世界を変える力があると信じてます。


「栃木避難者母の会」活動の記録 ― 避難先の出会いに支えられて― 

                   栃木避難者母の会代表 大山香
【目次】

はじめに ①

Ⅰ 栃木避難者母の会立ち上げ
 1.宇都宮大学乳幼児妊産婦プロジェクトとの出会い
 2.広域避難者当事者団体として連帯する
 3.助成金獲得
 4.キックオフミーティング

Ⅱ 2013年の活動  ②
 1.2013年の活動紹介
 2.2013年を振り返って
   1)支援者に助けられたこと
   2)何でも語れる空間を目指して
    
Ⅲ 2014年の活動  ③ 
 1.2014年の活動紹介
 2.2014年を振り返って
  1)避難者交流会に求められること
  2)他の団体と連携の動き
  3)福島県でまた開催して欲しい

Ⅳ 活動の考察  ④
  1.復興政策との乖離
   1)自主避難者に対する無理解
  2) 区域内避難者の絶望感
  3)高齢者が求めていること
 2.活動の効果
   1)絆の構築
   2)未来への布石・・・「証言集」の作成
    3)地域への愛着と感謝の芽生え

おわりに
 

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はじめに

 2011年3月に発生した福島第一原発事故で福島県より栃木県に避難をしてきた私達にとって、とちぎ暮らし応援会から毎月届くニュースレターが避難者とつながる最初の絆であった。2012年3月のニュースレターに避難者宅への訪問活動の募集情報があり、とても興味を持ち、応募した。
無事、とちぎ暮らし応援会の訪問支援員となり、2012年5月に行われた定期総会で、訪問支援員として紹介され活動が始まった。その総会では、阪神大震災の後、避難所で生活する人を支援するために、看護師としての職業を捨ててボランティア活動に生涯を捧げ、多くの功績を残したNPO法人阪神高齢者・障害者支援ネットワークの理事長、故・黒田裕子氏(2014年9月死去)の講演が行われた。
 講演後の6月には、2007年の新潟県中越沖地震で被災した住民に訪問活動を行った柏崎市に行き、すでに福島県からの避難者宅への訪問活動を開始していた被災者サポートセンター「あまやどり」の視察・研修を行った。手作りの避難者支援を栃木県に取りいれようと奮闘するとちぎ暮らし応援会の存在は、縁故がない宇都宮市に逃れ孤立を深めていた筆者にとって大きな励みになったことは言うまでもない。
 また、とちぎ暮らし応援会は栃木県庁と協定を結び、県内全避難者の住所の情報開示を受けていたことも画期的なことであった。そして栃木県内支援団体の紐帯の役割も果たし、この会を通して支援者との出会いがあり、関係性をつくるきっかけができたことも母の会を始める上で大変に有難いことであった。
 活動が始まった2012年は避難者の心理状態も、社会の動きも、非常に揺れており、政府の対応も遅く、避難者は不安や孤立感が大きかった。訪問先で、共感・共有できる場を作れたことは大きな意義があった。声をあげていけば、社会は変わるかもしれないと言う期待と願いもあった。
しかし、2013年には状況が変わらないことへの閉塞感が漂い、被災者同士の訪問活動だけでは限界であるとの認識を抱くようになってきた。政府の打ち出す復興方針や説明に、避難者の心理も大きく影響され続けるのを肌で感じた。
 そして、何より、筆者が震災当初より心に疼いていたのは、福島第一原発事故は天災ではないことである。地震によって、原発が爆発し、大量の放射性物質が放出され、全住民が自宅を追われ、今なおその状態が継続していることである。絶対に原発事故は起きることはないとされてきたにも関わらず、致命的な環境汚染を招き、多数の人々の暮らしを破壊した今回の福島第一原発事故は、事故が起きたことがすでに人災なのであり、国策で多額の税金を投入して長期にわたって、地方が原発建設を受け入れ、地方も都会も原子力産業でなりたってきた経済や町のあり方、そして、社会のあり方を考えるうえで、実に多くの教訓をもたらしたのである。
 これは、政治や行政は勿論のこと、教育、文化、一般常識、考え方の癖に至るまで、検証しなければならない、底辺から変えなければならない、“何か”をやりたい、と言う気持ちが離れなかった。日本人が大きな過ちを犯したことに対する畏怖心を持って負の認識を国民が一致して立ち上がらない限り、真の復興は不可能であると漠然と思っていた。そして、当事者ならではの切実な思いと主体性をこめた活動をしたいと立ち上がったのが、栃木避難者母の会であり、2013年春から本格的に活動を開始した。
 当時、借上住宅の期間も1年毎の更新であり、母の会の活動はうまくいけば2年、短くて1年と考えた。自分達は自主避難であるゆえ、借上住宅の貸与期間が過ぎたら、福島に戻ることを考えていた。2015年も経過し、これまでの活動を終了し、成果と反省、課題などをまとめた。


Ⅰ 栃木避難者母の会の立ち上げ

1.宇都宮大学乳幼児妊産婦プロジェクトとの出会い

 2012年訪問活動が開始となった時、すぐに訪問依頼の連絡があったのは郡山市からの自主避難の母親であった。直後に実施した訪問希望アンケートでも希望している自主避難の母達が比較的多かった。母達が語っていたことは、コミュニティや繋がりがない地域での育児の不便さや家庭の悩み、放射能不安視する気持ちと孤立感、行政への不信感と憤り、経済的・精神的負担などに集約された。
 低線量被曝に関しては、科学的解明が非常に困難であり、専門家も意見が別れているのは周知の事実であるが、五感で感知できない放射能を理由に引っ越しをすることは、大きな決断を伴うことであった。事実2011年避難直前に、我が家の小学3年生の娘から「放射能が理由で引っ越しするなど言えない」と訴えられた。当時、危険であると思う人は言葉にしてはいけない空気があり、行政と違った判断をする自分に自責が残り、「個人的な問題」として心に封印していたため、訪問活動を通して宇都宮の避難者から同じ思いを打ち明けられた時は、驚きと安心感が複雑に交差した。
 多くの母達が、人知れず泣いていたことに心を痛めた。放射能話題は、究極的には行政を守るのか、住民の健康や生命を守るのか、という対立に陥ることになる。学術的真理より政治的判断を優越する背景や、上から降りてくるものは従順に従うものとする社会心理、また、女性は黙っていることが良いとされる文化、そして、周囲に合わせることが大切とする社会通念を考えると、我々が発言することの困難に直面し、改善の余地さえない深刻な事態も浮き彫りになった。異なる意見や考えを表出しにくい社会の未熟と不健全も初めて気づくことになった。
 宇都宮大学乳幼児妊産婦プロジェクト(以下FSP)の先生達の活動を知るようになったのは、2012年6~7月の頃、阪本公美子教員(以下阪本先生)と匂坂宏枝氏(以下匂坂氏)が栃木暮らし応援会事務局を訪問したことがきっかけだった。プロジェクトが震災直後に、福島の母親に対して実施した意識調査アンケート*1 を見て関心を抱き、少しずつ接近していった。
 2012年12月FSP主催のママパパ茶会*2 では、阪本先生の配慮で企画段階から参加させてもらい、私の発想を全面的に取り入れて下さった。2012年7月に被災者によって結成されたとみおか子供未来ネットワークの第一回のタウンミーティングが、偶然にも訪問活動の拠点になっていたとちぎボランティアNPOセンターぽぽら(宇都宮市)で開催され、その取り組みに刺激を受けていたこともあり、ワークショップを行った。そして被災者同士の繋がりができるように、メーリングリスト作成を呼び掛けた。
 なお、とみおか子供未来ネットワークのタウンミーティングがきっかけとなり、元副代表の遠藤徳誉氏(以下遠藤氏)は、その後同じ訪問支援員として活動をするようになり、母の会の良き理解者となった。


2.広域避難者当事者団体として連帯する

 2012年12月16日に衆議院議員総選挙が行われることになり、告示日の前日に、山形避難者母の会代表・中村美紀氏より、広域避難者自治組織として各政党に公開質問を提出する勧誘を受けた。山形避難者母の会の活動の様子は、すでに耳にしており、福島県や山形県へ積極的な行政提言をしており、少しでも連帯したいと考えていた。もし、自分で会を立ち上げるなら、少しでも行政への陳情も実り多いものにしたく、連携して「栃木避難者母の会」と名付けることを検討していたこともあり、この誘いは断りたくなかった。緊急で自主避難ママのIさん、Yさんに声をかけ、同意を得たこともあり、「栃木避難者母の会」として名前を出してもらった。このことが心理的に大きな一歩となった。2013年の年明けに入り、立ち上げの相談にのってもらっていた阪本先生の計らいもあり、2月のFSP主催の交流会も、全面的に企画を受け入れて下さり、尾谷恒治弁護士による「子供・被災者支援法」の学習会*3 を開催できた。2013年2月には栃木暮らし応援会も母子避難者のための交流会を那須塩原市で開催した。この時、宇都宮大学FSPのメンバーである清水奈名子教員(以下清水先生)が参加しており、那須塩原市の放射能不安視する住民調査をしていることを知った。


3.助成金獲得

 山形避難者母の会の中村氏から避難者支援団体に対する助成金募集情報として、福島県寺子屋設置支援事業があると聞いていたので、それに申請しようとしていた。3月には、宇都宮大学FSPの匂坂氏より参考資料として、予算書作成に関しての情報提供も受けた。この情報支援を受け自宅で申請書作成に取り掛かったが予算科目や、予算額をどのように設定すべきか途方にくれた。額面通りに実行しないと、返納しなければならないのではないか、どの程度の不確かさなら許容されるかなど考え込んでしまった。
 書くには書いたが、手ごたえも感じられないまま、丸3日間かけてやっと作成した申請書を持参し、栃木県駐在の福島県避難者担当職員に相談に行った。すると、寺子屋設置支援事業は福島県内避難者向けであり、福島県外避難者対象ではないと言われ、あっけなく希望が打ち砕かれてしまった。失意に襲われた時に、当時、栃木暮らし応援会事務局長の安西裕氏が、栃木県共同募金会の「日韓共同募金会 東日本大震災救援プロジェクト」の募集情報を教えてくれた。すでに原案はできていたので多少推敲をして、申請をした。約1か月後、採用決定通知が来たときは、心が震えるほど感動をした。改めて助成金の拠出を確認すると、「日韓共同募金会」となっており、このことも偶然とは思えなかった。何故なら、私の親友は在日韓国人であったことで、彼女を通し様々なことを考えていたからである。そして、筆者自身も国策の被害者となり、過去の戦争も、原発事故も共通した原因の一つに、日本特有の国家主義にあると思索していたからである。被害を受けてもなお、日本の私達のために募金を寄せて下さった韓国人の思いやりに深く感謝し、歴史の闇に葬りさられてきた庶民の声こそ、何としても社会に「浮かび上がらせたい」という思いが明確な決意として、心に固める機会になった。


4.キックオフミーティング

 助成金決定を受けて、まず取り掛かったことは交流会を開催することであった。訪問活動を通し、心にあることを自由に話せる場と繋がりの必要性を感じていた。
一方で、スタッフ同志も、出会ったばかりで相互理解も始まったばかりだった。誰かが、先頭に立ってくれれば、できる範囲で手伝うという雰囲気だった。また、こうした有志的活動は、押し付けたりすることもできないし、子持ちの母であるので、子どもの急な用事などは折り込み済みである。
 会場選び、日程一つ決めるのも、本当にこれで良いのか、と不安に襲われながらも、役員に相談しながら進んでいった。自主避難ママにとって宇都宮大学はなじみがあり、開催するとすれば『ソノツギ』の利用は真っ先に浮かんだが、子連れでの参加、アクセスなど考慮し、悩んだ末、地理的な面で不安も残ったが、パルティとちぎ男女共同参画センター(以下パルティ)で開催することにした。パルティに相談に行くと、思いの外、啓発支援課の芳村佳子氏が協力的姿勢で対応して下さった。そして、パルティが後援団体として広報も手伝ってくれ、会場費も免除となった。こうした私どもの活動を支えようとしてくれる偶然の出会いに、心が救われる思いだった。
 遠藤氏の発案で交流会の名称を「避難者」と言う言葉を取り払って「女子会」とし明るい雰囲気にした。避難者が意見を話せ、すがすがしく帰れることを目指した。
講師は、那須塩原市で放射能を不安視している住民の意識調査をしていたFSP清水奈名子教員に講演を依頼した。30分の講演終了後は、数グループに別れて、ワークショップを開いた。交流会会場が2階にあるのに対して、託児室は3階にあり、用事があると何度も2階と3階を往復しなければならなかった。子供を託児ボランティアへ渡す時に、子供が泣いてしまい、母も動揺していた時は心配した。
 当日は、県北の那須塩原市から2組の親子が来てくれた。また、飯館村から避難してきた70代の高齢者も参加、世代を超えた集まりになった。講師である清水先生は「原発事故と女性たち いのちと生活を大切にする社会を考える」 と言う演題で講演をして下さった。30分という限られた講演だったが資料を準備してくれ、清水先生の思いがこもった内容だった。この時、語られたメッセージは、その後の母の会の活動方針になっていった。(資料は当ブログ2013.7.10に掲載)

以下は、当日の参加者が語っていたことを抜粋したものである。

≪区域外避難者 子育て世代≫
○福島に帰りたくない。放射能恐怖症である。
○週末に福島と栃木を往復しており、生活が落ち着かない。
≪区域内避難者 シルバー世代≫
○自宅にいた時は、年取ったなりに夢や希望があった。今は、夢や希望を持てない。
○目をつぶると先が真っ白になる。早く戻りたい。

参加してくれた区域内避難者には、我々福島県中通りからの自主避難者と、また違った喪失感があり、ひとくくりしてしまったことの反省や、話したいこと言えなかったのではないか、と自身の力量と力不足を認めずにはいられなかった。しかし一方には、達成感もあり、複雑な気持ちになった。人の心を相手にする以上、結果の可否はつけようがなく、気持ちの切り替えも重要だった。

キックオフミーティング2013.7.7

キックオフミーティング

 
註*
1 『宇都宮大学国際学部研究論集』第32号(宇都宮大学国際学部、2011年9月)27-48頁。
2 『宇都宮大学多文化公共圏センター年報』第5号(宇都宮大学国際学部附属多文化公共圏センター、2013年3月)103頁。
3 『福島乳幼児妊産婦支援プロジェクト報告書』(2011年4月~2013年2月)40頁。