栃木避難者母の会のブログ

福島県から避難してきたママ達がつながりを持って、安心して育児や日常生活を送れるように 自分の気持ちを大切に考えられるように 一人一人の声と言葉を大切にしています。福島事故の教訓を学び、伝え、二度と事故が起きないための活動をしています。


テーマ:

 著者は、震災当時、国立機関の研究者であったが、震災後、福島市に移り住み、福島で起きていることを住民目線で脳科学の立場から分析した本です。6年経過しても変わらない被災者の不安や心情が、合理性のあるものだとして大量の学術データや研究成果を通して解説しており、説得力があります。この本を読めば、これまで自主避難の母達が言葉では説明できず、放射能を怖がるのは心の問題だとされてきた風潮に対し、それは一面的な見方に過ぎず、論理的かつ科学的に整合のあることだとわかります。低線量被曝をめぐるリスクコミュニケーションの基底部にあることも、価値観の相違であるなど、目から鱗のような分析もあり、感服しながら、学ぶことが多い一冊です。

人間に対する真摯な姿勢と探求心に共感しました。このような人間の内面に根差した本質的論争を、実は、もっと早くに福島県民は一番求めていたかもしれません。やや学術的な本で難解な部分もありますが、勇気が湧いくる本です。

 

各章から一部メモ書きのように抜粋して、紹介します。

 

第1章 生物学的合理性から見た福島原発事故

必要とされる被災者の尊厳の回復(←まず、この言葉に感動しました。)

「事故直後から何も変わっていない」と訴える不安をどのように理解したらいいのだろうか。脳神経科学などの知見を踏まえて結論を先取りすれば、被災者の抱く不安感には生物学的な合理性がある。不安とは生物が進化の過程で獲得した生存の危機に対する警報装置だ。生物の警報装置もリスクに対して、過剰に反応するよう本能としてプログラムされている。

 

原発事故以来、被災者の心の中で鳴り響いている不安という警報装置は、日本社会が抱え込んできた社会の病を顕在化させてくれた。(←この警報装置が被災者は、今も鳴り響いています。)過剰な反応は非合理に見えるが、結果として、より確実な安全性を手にいれられる可能性がある。大げさに反応するこということは、記憶に残りやすく、同じ過ちを繰り返さないよう学習できることを意味している。被災者の訴える不安は決して過度な不安ではない。他人ごとでもない。いつ自分が当事者になるかわからない。

被災者の声に真摯に耳を傾け「もうこのような思いは誰にもしてほしくない」と願う被災者の置かれた状況に共感することで、潜在的な社会問題を共有することができるのではないか。(←絶対、そう思う)

  

第2章 脳神経科学から見た「不安」

不安とは生命が漠然とした危険にさらされたときに起きる情動のことだ。・・脳の偏桃体が破壊される病気の女性患者は不安を感じない。恐怖を感じたときに無意識に起きるはずの自律神経系の情動反応が起きない。

トカゲから人類に至る長い進化の歴史の中で偏桃体の機能が退化せずに保存されていたということは、危険を察知する「不安」という情動が、生存にとってきわめて重要な役割を果たしていることを意味している。

 

38億年前に誕生した地球上の生命は何度も大量絶滅の危機を乗り越えて生き延びてきた。トカゲが獲得した大雑把だが、素早い偏桃体の機能がそのまま人類まで引き継がれているということは、予防原則が生命の生き残り戦略として有効なことを進化の歴史が証明したことになる。正確さを追求するより、大雑把に素早く反応した方が生存に有利、それが経験に裏打ちされた生命の生き残り戦略だ。

 

不確実性の高い状況下では情動に基づく判断は理性的判断に比べ、相対的に高い合理性を発揮する可能性が高いことが示されている。

 

まず直感。理由は後付け。直感のメカニズム=人は情動を利用することで、瞬時に自分にとって何がハイリスクなのかを見分けることができるようになる。無意識のうちに意思決定の方向付けをしてしまう。情動反応がバイアスの正体。不確実性が高い場合、情動反応は理性より合理的な判断を行う可能性が高い。不確実性が高い状況下では偏桃体は活性化しやすい。

 

第3章 社会の病としての放射線災害

社会的な痛み(仲間から排除されたり、低く評価されたりしたことに対する不快な経験。孤立、格差、不公平に対する痛み)孤立している人ほど、死亡率が高い。不公平な社会ほど、犯罪率が高く、人と人の信頼感に欠け、社会的な結束力が弱く、健康水準が低い。

被災者は原発事故直後から、現在に至るまで、社会的排除による痛みを感じ続けている。(まさしく)そして、社会的排除による健康被害も発生し続けている。(まさしく)

 

原発事故は日本社会がこれまで抱え込んできた格差社会という「社会の病」の存在を、被災者の不安として顕在化させた。

 

女性の地位が高い州ほど、男性の死亡率が低いことがわかった。女性の地位が低い社会は男性間でも不平等、つまり社会全体が不平等であることが考えられる。そのような格差社会では社会的弱者である女性だけでなく、優位な立場にある男性の死亡率も高くなる

 

心が痛めば、実際に心臓が痛む配偶者との死別直後は、心筋梗塞のリスクが2.2倍になる。

(この言葉には本当に驚きです。私の周りでも、高齢者で避難先で心臓手術している人がとても多いです!!)疎外感などの社会的痛みは物理的痛みを和らげる痛み止め、アセトアミノフェノンの服用で和らげることがわかった。心と身体は別別ではない。

 

第4章 科学的リスク評価の限界

 社会的動物である人間にとって自分の生を支えてくれた自然、文化、地縁血縁を失うことによる社会的な痛みは生存の危機を意味する。・・なのに、今回の原発事故では放射線という量に還元できる基準以外の健康リスクは評価の対象外となる。社会の病は本人の心の問題として十把一絡げに切り捨てられてしまう。

社会学者の藤川賢は、健康リスクを居住地の放射線の数字で分けてしまったことで、リスクの共有、連帯意識の形成がしにくくなってしまった、と指摘する。住民同士が人の痛みを自分の痛みのように共感できれば「放射線に関わらず放射能汚染は問題だ」という認識を共有しやすい。住民の心を引き裂いてしまったことが一番の被害と被災者は訴える。

 

社会的動物として進化した人類は、自らの生存率を高めるため公平であることを求める。倫理・道徳は人間に特有の理性的で合理的な判断などではなく、他の動物にも共通してみられる情動反応を基盤としているようだ。人は公平さに対しては自腹を切って御礼をし、裏切り者に対しては、報酬を期待しないで処罰しようとすることが実験で確かめられている。

 

第5章 これからの安全・安心論議に求められるもの

 放射線被ばくの健康リスクをめぐる論争は、表面的には科学論争のように見えて、本当の論点は、「どのような社会が住み心地のいい社会と言えるのか」という価値観の対立にある。

 科学史・科学哲学の村上陽一郎は、安全性の議論には3つのバリエーションがあると述べている。一つはどこまで国家が国民の健康や安全を保障するのかという議論、二つ目はどこまで国民の自由と責任に委ねて国家の介入を抑えるのかという議論、3つ目は国民の自由を尊重することにおいて、敗者に回った人たちを社会はみすてるべきなのか、という議論だ。安全性の議論は、この3つの座標軸の間を行きつ戻りつしながら落としどころを求める作業だと指摘する。

 

筆者は、子供の貧困など格差が問題となる中で、超高齢化社会を迎える日本社会は、最も犠牲になりやすい人が最大の利益を得るような社会になることが、すべての人にとって住み心地のいい社会になると考える

社会的動物である人間は、自分と自分の子供の子孫の生存率を高めるため、弱者に共感し、公正さに快感を感じるように進化した。不公正に対しては本能的に嫌悪する。このことを裏付けるように以下のことが社会疫学の調査で明らかになってきている。

 

(1)一定の経済水準に達した国では、経済的な豊かさは寿命の延び、福祉の充実、幸福感に結びつかない。

(2)格差の激しい社会ほど、裕福な人も含めて死亡率が高く、公正な社会ほど、すべての階層で死亡率が低い

(3)格差そのものが死亡率の原因である可能性が高い。

(4)世界最高にある日本の健康水準は、格差拡大が続く限り、近い将来、悪化する可能性が高い

被災者は数十年先の日本社会の課題を先取りして肌で感じている「先生」である。その先生の声を充分に反映させるためには、ハザードの同定からリスクの評価に至るリスクアセスメントすべての過程に、被災者自身が積極的に関わっていけるかどうかがカギを握っている。そのためには、まず、言葉を失いかけている被災者が、安心してあるがままの自分の気持ちに素直に耳を傾けることができる場作りが必要である。 

 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

新年度も始まり、あっという間に、5月になりました。ガーベラ(^~^)昼間は時々暑かったり、朝夕はまだまだ肌寒く、気温の変化もありますが、風邪などひいていませんか?照れところで、5月に母の会を開催予定でしたが、様々な予定が入り込み都合がつかないので、今年度はきりよく6/7(水)10時よりまちぴあで開催致します!!7月以降、今年度のお茶会は、水曜日に開催するか木曜日に開催するかは、6月のお茶会の時に相談してきめたいと思います。では、まちぴあにてお待ちしております。OK今年度も、楽しいお茶会となりますようにどうぞ、宜しくお願い申し上げます。(*^▽^*)ラブラブブルーハーツラブラブ

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

昨年(2016年)2月に出版された本です。佐藤先生は筑波大学、田口先生は宇都宮大学の先生です。事故後に立ち上がった宇都宮大学乳幼児妊産婦プロジェクト(現・福島原発震災フォーラム)でもご活躍された先生です。昨年この本を見た時、分厚くて難しそう、と思い敬遠していましたが、最近手にとり読み始めると、取り上げる題材が興味深く、理論展開の素晴らしさに感動したりして「学びたい」衝動が続くお勧めの本です。原発事故で見られた政府側や市民、科学者や専門家の言論、派生している社会問題を広く網羅して、論理的に分析かつ展開されております。一般市民向けと言うより大学の教科書、もしくは学術者向けではないかと思われ、かなり専門性の高い本です。社会学や、政治学、歴史、産業、科学、そして哲学と幅広い領域に連なる壮大なアカデミズムに対する挑戦や、その謙虚さや良識、底流に波打つヒューマニズムに刺激され大きな感動を覚えます。

 

 内容のごくごく一部だけ、紹介します。

 

福島第一原発事故という「出来事」の出来事性を私たちは真剣に受け止めるべきである。もともと大量破壊兵器のために作られた核エネルギー技術を市民社会の中で日常的に用いることは私たちの生の条件と民主主義に対して様々な矛盾を突き付けざるをえない。このような視点に立つとき、核兵器と原子力発電の全廃と再生可能エネルギーを中心としたエネルギー政策への根本的な転換は必要不可欠なものとなるだろう。

 

国富とは逆説的にも、国家と資本にとっても経済的コストのことでも、そうしたコストを避けるために原発を再稼働させることでもなく、人間的生そのものである。この意味で、私たちが求める脱原発を実現するためには、人間的生を、自己目的化した技術あるいは経済成長のための「手段」として捉えるのではなく、「目的」として捉え直す視点が必要不可欠となる。世界史上最大級の原発過酷事故の〈事後〉にもかかわらず、原発再稼働、原発技術輸出、核武装への傾斜を強めるこの国において、いま、最も取り戻されるべきは、目的倒錯の渦中に投げ込まれた私たち自身の人間的生に他ならない。

 

主体は自らの存在を維持するために権力への服従化に執着せざるを得ない。なぜなら、服従化された主体が権力への服従化を放棄すれば、自らの存在そのものをも放棄することになるからだ。従って、主体は言わば自己保存のために権力への服従化を欲望せざるをえない。しかしながら、その欲望は、福島第一原発事故後には、「原発が危険なことはわかったが、それでも服従化の欲望を放棄すれば自らの存在そのものを放棄することになる」というジレンマの様相を呈しているように見える。この点について開沼のような社会学者は 原発立地自治体の欲望のあり方を記述し、福島第一原発事故後もそれは「一切変わっていない」といったシニカルな結論を導きだせばよいのかもしれないが、哲学はむしろ、そうした服従化の欲望を脱服従化するような展望を提示しなければならない。・・・実際、福島県は『福島県復興ビジョン』で脱原発を掲げている。また、国民レベルでは脱原発に賛成する人々は、20143月の時点で77%にのぼる。その意味で私たちは、開沼の主張に一定の意義は認めるにせよ、同時にその主張は結果として脱原発の可能性を否認するものであると考えている。国家の核エネルギー政策に対する脱服従化を実現するためには、地方が中央に収奪されることを「欲望する」ような社会=経済構造を変革することが不可欠である。

 

清水修二は、電源三法とは、「公害の危険性」を持つ原子力発電所の設置に対する、地域住民への単なる「迷惑料」である、と指摘する。しかしながら、私たちの観点からは、電源三法を地域住民への単なる「迷惑料」と見なすことはできない。私たちはむしろ電源三法を、国家がその核エネルギー政策へと原発立地地域を服従化し、その服従化を再生産するための有力な手段である、と定義する。

 

公害、日本国憲法、軍事力拡大に対する三重化された否認の袋小路を脱して、脱原発と不戦主義を実現しない限り、私たちの未来に待ち受けているのは、福島第一原発事故よりももっと取り返しのつかないカタストロフィであろう。

 

 

・・・・・・等。

 

原発事故は、被害者にとって個人が国家に直接向き合わなければならない出来事になっており、「人権」や「民主主義」について、根本的に考えさせられる事件になりました。これまで考えたことがなかったテーマであることは、確かです。そして、原発事故の問題は被害を受けた人ばかりでなく、未来世代に対して今に生きる大人達にも責任が及んでくると共有する必要性があるだろうと思います。

国家・資本主義の論理で、地方が中央に隷属している中央集権的統治から、管理された民主主義ではなく、国民主体の真の民主主義社会にシフトチェンジを図るための材料となる分析や考察が確認でき、大いなる刺激や意欲を感じるとともに深い共感を覚えます。

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

2017年2月22日付 中外日報(社説)

転載元:http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2017/0222.html

 

名優チャップリンが残した名言に「私は祖国を愛するが、祖国に愛せよと言われたら、遠慮なく祖国から出ていく」というのがある。チャップリンはハリウッドで活躍、1952年米国を追放されたが、英国出身で米国籍はなく、どんな状況での発言なのかは不詳だ。ただ、名作「独裁者」や「殺人狂時代」などの反戦映画で米軍部ににらまれた上、朝鮮戦争で高まる反共運動=マッカーシズムで窮地に陥った。追放は過去の未成年女性との結婚をあげつらわれたが、真の理由は「赤」と見なされたことだった(淀川長治著『私のチャップリン』などによる)。

愛国心は強要されるものではなく、無分別に高揚すると敵対する者への攻撃や戦争へと暴走する危険を常にはらむ。チャップリンは「殺人狂時代」でも主人公に「一人殺せば犯罪者だが、百万人なら英雄だ」と語らせており、冒頭の言葉は戦争を憎む自己の思想・信念から出た心の叫びと理解して無理はなかろう。

チャップリンを追放した“赤狩り”は、米国民の共産主義への脅えに乗じたポピュリズム政治家が主導した。情動的な愛国心を刺激され、米国社会の異常に排外的な時代は50年代後半まで続いた。

米国のこの歴史の体験は、現在進行形の「トランプ現象」と重なる。テロの脅威と白人労働者の雇用喪失の不満をズームアップし、メキシコ国境の「壁」建設やイスラム教徒の入国制限など極端な排外政策につなげるトランプ大統領の「米国第一主義」は、健全な愛国心とは程遠い。

米国ばかりではない。外電(AFP電子版)は、89年にドイツを分断していた「ベルリンの壁」が撤去されて以降、世界の国境や境界線に存在する「壁」は逆に増え続けているというカナダの研究者の指摘を報じている。それぞれ事情は異なるだろう。また、人々を分断するのは当然ながら「壁」だけではない。日本では、例えば近隣国を侮辱し、薄っぺらな愛国心を煽る出版物があふれている。

そんな世相を見るにつけ、かつてヒトラー後継者と目されたゲーリングの言葉を思い出す。この男は、国民を戦争に導くのは簡単で「外国から攻撃されつつあると言うだけでいい。平和主義者には愛国心がなく、国を危険にさらす人々だと非難すればいいだけのことだ」(要約)と言ったそうだ。これはファシズムへの道である。

愛国心も人類愛や「地球市民」概念に通じるものでなくてはならない。それが仏教の立場だ。偏狭な愛国主義がまん延する世に、これほど今日的な教えはあるまい。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

転載元 市民と科学者の内部被曝問題研究会 http://blog.acsir.org/?eid=46

 

正論だと思います。!!

 

目次
1節 私の3.11福島原発事故前後の対応               2015年6月
   1.福島原発事故まで 
   2.突然の大震災と福島原発事故
2節 物理学者の社会的責任
3節 人格権は何事にも優先して護られるべきである
4節 科学は何のために必要なのか
5節 福島原発事故に対する責任を認めない日本物理学会
6節 おわりに

参考資料1 会誌掲載論考「福島原発事故研究の要望に対する理事会の回答に思う」
参考資料2 会誌掲載拒否論考「福島原発事故で放出された放射性微粒子の危険性」
参考資料3 参考資料2の掲載拒否までの経緯
追記1 弱いものを締め出す社会は弱くてもろい社会である

1節 はじめに-私の3.11福島原発事故前後の対応

1.福島原発事故まで
 私は2006年に京都大学を定年退職した。1961年に大阪大学の物理学科に入学して以来、45年間物理学を専門としてきた。その退職の際、最も強く思ったことは、学生を不幸にしたり、社会に迷惑をかけることなしにどうにか無事定年を迎えたという安堵の気持ちであった。ただ、原発や環境ホルモンなど科学技術のもたらした危険性に対していっそう不安になり、最終講義でそのことをお話し、理学の使命は、諸科学を総合して、このような人類的な課題に答えることにあることを訴えた。この最終講義は物性研究の「講義ノート」に2回に分けて掲載されている。(物性研究 (2005), 84(5): 703-710、URL http://hdl.handle.net/2433/110263)(物性研究 (2005), 85(1):1-19,URL http://hdl.handle.net/2433/110360
 この最終講義で述べたように、私が在職中、職業としての理論物理学における研究・教育と同時に、社会における科学者の果たすべき社会的責任の問題が気がかりであった。
 物理学会では、「物理学者の社会的責任」という特別の分科の世話人を川野真治氏や澤田昭二氏と務めてきた。佐藤一男氏、近藤駿介氏、久米三四郎氏、高木仁三郎氏、槌田敦氏を学会に呼んで、シンポジウムを開き、原発問題を議論してきた。このころは学会の正式分科として「物理学者の社会的責任」は扱われ、学会のプログラム会議にも出席した。
 日本物理学会誌にも原発は「阪神・淡路地震」にも耐えうるという井上進一氏の原発の耐震設計の解説に対する批判を談話室の欄に投稿した。耐震設計の基礎である大崎順彦氏の方法の欠陥を指摘した(日本物理学会誌51、1996年、359ページ)。
 京大では井村総長の時代から少人数ゼミと称して、全学から新入生を10人ずつ研究室に呼んでゼミを行うことが制度化された。これは新入の学生に研究の先端に触れさせ学習意欲を高めるためのものであった。私は1999年から2005年まで「社会における自然科学」というテーマでこのゼミを開講し、原発問題や環境問題を議論してきた。最初の年、学生の意欲は高く、ティア・コルボーンらの「奪われし未来」を読んだ。中西準子氏の「環境ホルモンから騒ぎ」を批判する小冊子をゼミで作り、中西氏へも送付した。
 このような原発や環境ホルモンはいずれ被害が顕在化し、徐々に人々はその危険性を理解するだろうと考えてきた。定年後まもなく、世界大恐慌の時代となり、飢餓と貧困を救う経済学を勉強したいと思い、資本論を読み始めた。

2.突然の大震災と福島原発事故
 その最中の2011年3月11日、マグニチュード9の大地震と大津波を受け、福島原発が炉心溶融を伴う破局的事故となった。すでにこれまで、女川、志賀、柏崎と耐震設計を超える地震動が現実に観測され、原発の耐震性が破綻していた。耐震設計のもとになっていた大崎の方法に正当性がないことが誰の眼にも明らかになり、耐震設計審査指針の改定が2006年に行われたばかりであった。スマトラ地震や貞観地震などから、津波の心配も出されていた。この一連の地震からの警告も無視して、電力各社、政府、原子力安全・保安院は原発の運転を認め、運転を継続してきたのである。今回の原発震災は、明らかな原発の耐震性の欠如を無視して、地震動の過小評価を用いて安全性を捏造してきた原発推進派の犯罪といってもよい過失の結果である。これはまぎれもなく人災である。
 福島原発事故は私にとって一生の中で最大の衝撃であった。事故の直後の3月20日ごろ、大阪で原発事故についての講演を頼まれたが途中で涙が出て困った。原発は危険だとは言ってきたが本当に起こるという現実感がこれまでなく、私自身原発を甘く見ていたのである。いざ、福島原発事故の被害を心配する多くの市民を前にすると、真っ先に、物理学者はなぜこのような危険な原発を造ってしまったのか。これから起こる被害の大きさを考えると責任の重さに耐えられない気がして声が出なかった。
 現実に福島原発事故のような過酷事故が起こってみると、私の原発事故に対する危険性の規模や現実性・緊急性に対する認識が甘く不十分であったことが明らかであった。この事故で私のささやかな物理学での研究成果も吹き飛び、私が人々に与えたものは負の効果の方が大きいと思った。私の一生は事故とともに無に帰したのである。むしろ物理学者全体としての責任を考えると大きなマイナスである。物理学者が原子力の平和利用を認めなければ福島原発事故はなかったのである。人々は、事故で故郷を追われ、健康や生命を失うことはなかったのである。被害の大きさが底なしの大きさで、長期にわたって、福島はじめ世界を襲うと思うといたたまれない気がした。定年退職後、のんびり経済学を勉強したいと思ったのは福島事故5年前であった。まさに原発に危険が迫っていたのであり、全力で原発の停止に没頭すべき時期であったのである。このころ、耐震設計の欠陥が明らかになり、一方、ウランの資源としての枯渇からいずれ縮小に向かうと考えていた。おそらく大事故がない内に原発廃棄になるだろう。我々は警告を続ければよい。油断があったのである。人は体力の衰えとともに、自分で楽な方向をとり、言い訳をして正当化するようになりがちである。しかし、現実は情け容赦なく襲い掛かるものである。
 さらに私の予想と全く違ったのは物理学者はじめ科学者の事故後の態度であった。この大事故を前にして、安全神話を信じた科学者は後悔し、謝罪し、原発は放棄するするだろうと思っていた。驚いたことは謝罪どころか、被害を否定し、原発の再稼働さえ容認しようとしていることである。正常な判断とは思われない。これは信じがたいことである。さらに田崎晴明氏や菊池誠氏など中堅の物理学者が公平な第三者のような顔をして、放射線被曝を過小に評価し、被曝被害を拡大する危険性にも平然としていることである。これは大変なことであり、福島や東北・関東の子供や妊婦が心配である。物理学者が自分で犯した犯罪による被害を過小に評価し、被害はほとんどないと被害者に言い聞かせている行為である。後述するように、日本物理学会誌で被曝被害の危険性を物理学会員に訴えようにも「風評被害」を煽るとして掲載を拒否される。せめて阪大金森研の同窓会メールで友人たちに広めようとするとメール管理者から通常でさえメールが多いのに迷惑だと使用禁止が宣告される。ことは人命や人権に関わることである。
 雑誌「物性研究」も私の田崎氏の著書(田崎晴明著「やっかいな放射線と向きあっていくための基礎知識」朝日出版社、2012年)批判に対しては不当な取扱いであった。以前中西準子氏のリスク論を批判した原稿を投稿した。その原稿を中西氏に編集部から送付し、反論等を期待したが応答はなかった。その結果、この事実を付して私の投稿のみが掲載された。ところが今回は田崎氏が反論しないという理由で掲載されなかったのである。反論しないのは田崎氏の自由であるが、批判した私の論考は掲載して読者の議論に付すのが当然であろう。なぜなら私は田崎氏の著書の被曝被害の過小評価や、その危険性を放置することは物理学者の責任として許されないことを読者に訴えていたからである。
 ところが、私の投稿が掲載されなかったことを逆利用して、菊池誠氏は私の田崎批判が「掲載拒否」された論文として間違いや不当性があるかのように宣伝している。菊池氏も物性研究で反論できる立場にあるのであるから,具体的内容で反論すべきである。菊池氏は小峰公子氏との共著「いちから聞きたい放射線のほんとう」(筑摩書房、2014年)の中で、「妊娠中に被曝すると、子供が何かの障害を持って生まれるかどうかだけど、原爆の被爆者の調査でわかっていて、妊娠中に100ミリシーベルト以上被曝しなければ、リスクは上がらない。がんのリスクと違って、低い線量ではリスクは上がらないんだ。」と154ページに書いている。さらに「数値から見ると今回の原発事故に限っては心配ないと」「そう言い切っていいよ」155ページ。ところが、現実に自然死産率は事故から9か月過ぎた2011年12月、福島近県の4県で12.9%増加し、11県で死産率と生後1年以内の乳児死亡率と合わせたものが5.2%増加した(2014年2月6日発行ドイツの放射線防護専門誌「放射線テレックス(Strahlentelex)」650-651号に掲載された論文:Folgen von Fukushima, Totgeburten und Säuglingssterblichkeit in Japan:ふくもとまさお氏訳: http://yahoo.jp/box/fQknBG または http://www.strahlentelex.de/strahlentelex022014_kiji_JP_fukumoto.pdf からダウンロードできる。)この論文の著者たちは「以上の解析結果は、チェルノブイリ原発事故後にヨーロッパで観察できたように、日本でも放射線被曝による遺伝子障害の影響が発生していることを示唆している。この解析結果からすると、今後日本において自然死産と乳児死亡、先天異常、出生時の出生性比の動向を注意深く観察する必要がある。」と記している。.
 このような死産や乳児死亡の増加は放射線の影響で胎児の正常な発育が損傷された結果と考えられる。これまで広島・長崎や他の調査で明らかにされている小児がんの増加なども含め総合的に検討すべきであり、現在放射線医学総合研究所も慎重な姿勢をとっている。菊池氏らの本の帯に「中学校の教科書に」と書かれているがそれでよいのだろうか。
 なぜ、みんなこのような重大事を正々堂々と公表し、議論しないのか。個人や物理学者だけの問題ではなく、社会に対する科学者の責任の問題である。

2節 物理学者の社会的責任
 前回「原発問題の争点」(緑風出版、2012年)において、原子核物理学者をはじめ専門家の立場から、原子力の平和利用を推進してきた物理学者の原発事故に対する責任について議論した。学術会議をはじめ科学者たちは核の軍事利用には反対してきたが、平和利用の推進には積極的に協力してきた。物理学者をはじめとして日本の科学者たちは、核の軍事利用の歯止めとして、同時に平和利用の自主開発を目指して、平和利用三原則「自主、民主.公開」を主張した。中曽根康弘氏などの自民党と社会党は共同提案で、平和利用三原則を掲げた原子力基本法を1955年に制定させた。これは結果的には、当時のアイゼンハワー米大統領の、核実験反対などの核の軍事利用に反対する国際世論をそらせ、沈静化させるための宣伝政策「平和のための原子力(Atoms for Peace)」(1953年国連演説)に協力する役割を果たした。こうして、我が国の科学者たちは、核の「平和利用」として原子力の自主開発を目指した。しかし、産業界が政界と一体になって海外原発の技術導入によって原子力推進に乗り出してから、「自主・民主・公開」の三原則は政財界の原子力推進に対する外からの条件闘争とならざるを得なかった。そして、科学者としては主導権を産業界・政界に奪われてしまった。こうして科学者は総体としては、平和利用と称する原子力利用に積極的に協力することになった。「自主・民主・公開」の三原則は企業秘密と国家機密のもとにないがしろにされる結果となった。それどころか、原子力に反対するものは科学に反対するものであり、「反科学」とさえ呼ばれた。このように物理学者を中心として科学者は平和利用に積極的に加担し、組み込まれてきたのである。一方、政府・支配層は平和利用を隠れ蓑とし、核燃料サイクルを通じて核武装にも対応できる体制を構築してきた。
 本来、核技術は他の技術と同様に軍事と民事の区別が困難である。このことも平和利用を求める科学者・市民が軽視し、誤った点であった。
 その平和利用の結果、福島原発事故が発生した。それ故、以上の経緯からしても、物理学者に事故の被害に対する加害責任があるのは当然である。主導したとは言わなくても、少なくとも積極的に反対しなかったのは事実である。ここで改めて科学者は原点に返り、原子力の「平和利用」は正しい選択であったかを問わねばならない。私は平和利用として原子力をエネルギー産業とすることは間違いであると考える。
 物理学者を含め科学者が核の「平和利用」において、間違えたことは、第一に原子力の持つ巨大なエネルギーが制御不可能であり、原子力エネルギーの利用は本質的に危険であることであった。第二の重大な誤りは、地震をはじめ天災の危険性とその対策が科学技術的・経済的に不可能に近いことであった。第三に放射線被曝の生命体に対する危険性がすでに明らかであったにもかかわらず、その隠蔽を見抜けず、過小評価したという誤りであった。そしてその危険性が通常運転を通じて日常的に、更に使用済み燃料を通じてほぼ永久に、遠い未来の世代にまで続くことであった。
 原子力発電の危険性に物理学者は気が付かなかったから責任は問えないと考える人もあるかもしれない。しかし、私はこのような言い訳は許されないと思う。内外の物理学者の一部が原子力の危険性を隠蔽して、積極的に協力してきたことは事実であり、それを知らない人はいないであろう。人類にとってこれほど重大な社会問題に傍観者でいることは学者としての責任を放棄するものであり、怠慢であると思う。他にも重要な問題があり、自分は自分の分野で輝かしい成果を生んだからよいではないかと考える人もあろう。しかし、後述するように、人類の平等から由来する民主主義の歴史は、「人類の健康や生命にかかわる人格権は何事にも優先して擁護されなければならない」ことを教えている。高等教育を受け、またそれを後の世代に伝える教育を担う学者集団が率先して、人格権や基本的人権を守り発展させなければならない。
 私は科学者としては、特に集団として総合的な判断は科学者としての使命を果たす上で不可欠であると思う。そうでなければ科学の進歩が人類の幸福に生かされる保証がないからである。
 我々科学者は漫然と研究しているわけではない。研究の成果が真理であればいつかは人類の幸福に貢献することを信じ、それを目的に研究しているのである。それ故、科学の成果の利用には常に関心を持ち、厳しく監視することが使命である。それは現在の科学が組織的社会的な作業となり、国民の血税によって支えられていることからも理解できる。老人医療や生活保護など社会福祉のための予算が圧縮されている中で、研究費が支給されているのである。
 現在の資本主義社会においては私企業や産業界の科学技術に対する介入が強まり、研究の援助、寄付講座まで大学にも浸透した。表1に東大と京大の2014年度の主な収入を示した。文部科学省からの運営交付金が削られる一方で、産学連携等研究収入( 国や民間等からの受託研究や共同研究等に係る収入)の割合が高くなっていることがわかる。それぞれの大学の報告では2015年現在、東京大学寄付講座数74講座、京都大学31講座である。
 このように文部科学省からの運営交付金が厳しく削減される中で、電力独占体や企業の様々な補助や資金は科学者の重要な財源の一つとなった。その結果、政府予算の獲得や産学協同と引き換えに、原発反対を保留し、あるいは原子力推進に協力することはなかっただろうか。 いずれにせよ、この平和利用の持つ危険性を明確に警告できなかったことは我が国物理学者の過去、および現在、未来の人類に対する取り返しのつかない過ちであり、物理学者に加害責任が存在することは物事を真摯に考えれば当然のことである。第2次世界大戦において近隣諸国を侵略し、多くの犠牲を負わせることになった。この犠牲に対する謝罪も我が国及び国民の責任の問題としてよく議論される。同じ意味で物理学者の国民に対する加害責任は放置してよいことではない。物理学者の先人たちの犯した過ちは若い世代が引き継ぎ謝罪し、2度と被害を与えることの無いよう誠心誠意努力すべきことなのである。それ故、現在、起こってしまった福島原発事故の被害を最小限に留め、再び原発事故を起こすことのないようにすることは私たち物理学者の最低限の義務である。


表1 大学の主な収入(平成26年度)両大学のホームページより引用


3節 人格権は何事にも優先して護られるべきである
 不平等をなくし平等を拡大することによって民主主義は進歩する。人類の歴史において富の蓄積とともに階級が発生し、不平等が発生した。奴隷制社会や封建制社会のもとでの神の前の平等から、近代ブルジョア社会の法の前での平等へと民主主義は進歩してきた。現在まだ拡大しつつ存在する、経済的不平等は民主主義に対する大きな障害となっている。このような民主主義の拡大とともに人類平等の普遍的原理として人格権や基本的人権が確立してきた。
 民主主義に関しては、哲学者森信成氏はその著『唯物論哲学入門』(新泉社、1972年)で次のように述べている(108ページ)。「民主主義は人類共同の利害が目的となっており、人類の平等が原則である。我々すべてのものが生まれながらにして平等であり、自分の良心に従って生きる権利がある。そしてこの権利を表現する自由を持っている。つまり、思想、言論、出版、集会、結社の自由というものは万人が共通に持っている権利である。これらの権利は、人類平等というところから必然的に導きだされてくるものである。自分はこれだけいう権利を持っているがお前はこれだけいう権利を持っていないといったような差別はない。自分が自分の権利を保障されれば、他人にも同じだけのものを認めるということは、人類平等の原則から必然的に出てくるものである。このように人類平等の原則から必然的に出てくる原則が基本的人権であり、民主主義である」。
 全ての人が健康で文化的な生活を送る権利や働く権利を持つ(人格権)。そして人間としての基本的な権利、表現、出版、学問の自由、集会・結社の自由、健康で文化的な生活など基本的人権が保証されるべきことが人類の歴史上の結論として確立してきたのである。
 この人間としての権利は人格権としてすべてに優先して尊重されるべき権利なのである。この観点から、人類の生命、健康を護り発展させることは他のあらゆる活動の利害に優先するのである。例えば国際放射線防護委員会ICRPの「リスク・ベネフィット論」の言う「経済的・社会的利益を考慮した上で合理的に達成できる限り低く」という被曝基準の考え方は企業の経済的利害を人類の生命・健康の上位に置くものであり、人格権を侵害するものである。この正当な判断を大飯原発運転差し止め判決と高浜3,4号機再稼動差し止め仮処分判決は示したのである。この人格権は世界中のすべての人に保障された権利である。私企業や個々人の私的利益活動よりも、人類の一員であるひとりひとりの生命・健康の擁護が優先するのである。この人類の人格権を守ることは被曝の問題でも科学研究の場においても貫徹されなければならない原理・原則である。この点は特に、大飯原発の差し止め判決やアナンド・グローバー氏の国連特別報告にも「健康に生きる権利」を人格権として優先されるべき原則として主張され、広範な支持を得ている。そして差し止め判決では私企業の電力の生産という利益は人格権より低いものであり、原発が住民の健康・生命という人格権を侵害する恐れがある以上運転差し止めは当然としたのである。福井地裁判決は言う。「個人の生命、身体、精神および生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり、(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、わが国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。」
 これはまた、科学研究といえども人格権の下にあり、研究者である前に人間として、すべての人と同様に、それ以上に、他者の人格権を尊重し、守り発展させる義務があるのである。現在、一般社会において民主主義が蹂躙され、貧富の差が拡大し歴史が逆転している。この中で、大学間の格差が拡大し、外部資金による差別化の下で、科学者は競争で社会的連帯を失い、個人中心主義的になったと思う。
 本論考の最後に人権と全ての人の共生ということに感銘を受けた言葉を追加した。人権ということは社会的弱者とともに生きるということであり、傲慢な勝者の横暴を協力して阻止することである。(追記1参照)

4節 科学は何のために必要なのか
 科学の発展の初期においては科学が貴族の個人的な趣味として存在した時期もあった。科学が技術と結びつき、産業に貢献するようになってから科学技術は生産力を支える重要な要素となった。科学の進歩は生産技術の進歩として豊かな生活をもたらすはずのものである。生産技術の発達とともに、科学研究は社会的・組織的な労働となった。研究機関は社会的にその研究活動を支えられることになった。研究成果は普遍的であり、人類共通の財産となった。それ故、研究の自由、学問の自由が保障されているのである。ただ、現在社会が、社会的生産手段の私的所有を基礎とする資本主義社会であるために、社会の利益に背くゆがんだ形で科学研究が実現するという制約を持つ。この科学にとって不幸な私的利害からの介入・干渉、制約、私物化という事態は人類の進歩と幸福に反することであり、科学に携わる研究労働者は人類のために尽くすというその社会的責任を片時も忘れてはならない。一方でその科学の破壊力も増大し、ダイナマイトのように生産の進歩にも軍事力の増大にも貢献するものから、ついに科学は核という無限の破壊力を持つに至った。このことは一層科学者の責任を大きくする。
 科学の持つ本来の普遍的な価値のゆえに、物理学者は働く国民の税金である国家予算でその大部分の研究が支えられている。物理学者は、物理に関連する諸問題に対して、的確に判断し、国民の健康、幸福のために学問が利用されるよう行動する義務がある。これが先ほど述べた全ての人が守るべき人格権に基づいているからである。

5節 福島原発事故に対する責任を認めない日本物理学会
 ところが日本物理学会は福島原発事故直後の2011年6月10日、田中俊一氏、有馬朗人氏、柴田徳思氏などを講師とする「原子力利用とエネルギー問題」というシンポジウムを開き、反省よりも被害の過小評価と再稼動への意志を再構築しようとしたのである。私はこの点に関して「原発問題の争点」第3章で取り上げ、批判した。
 それ以後も日本物理学会は原発事故に対する自己の責任は認めておらず、むしろ物理学会誌上でもオープンな議論を避けているように思われる。大変、遺憾なことである。このような問題点を示す実際の例として、この論考の最後に私の物理学会誌への投稿原稿や会誌編集委員会との議論を資料として再録する。
 まず、日本物理学会は上記の原発推進のシンポジウムを開いた。つづいて物理学会としての責任を認めず、福島原発事故に対する学会としての研究活動を拒否した。私はそれに対する批判を会員の声に投稿した(参考資料1参照)。さらに、私は福島事故での放出放射性物質量に関して、文献調査の結果を会員の声に投稿した。「福島原発事故の放射性物質放出量はチェルノブイリの2倍以上」というものであるが、査読が必要な問題なので掲載できないという編集委員会の回答であった。しかし、本投稿は国際的に権威のある気象学などの掲載論文に基づく総説的考察であり、すでに査読はそれぞれの雑誌でなされているのである。政府やマスコミの福島原発事故はチェルノブイリ原発事故より放出規模が一桁小さいという誤解についてコメントしたものである。会員の感想や意見を述べるべき「会員の声」欄で査読を必要とするという判断も異常なことである。さらに、私が「福島原発事故で放出された放射性微粒子に対する危険性」を会員の声に投稿すると(参考資料2参照)、本来必要のない閲読や「風評被害」を理由に掲載を拒否した(参考資料3参照)。
 まさに福島原発事故の被害を予防原則に基づいて、その危険性を広め、警告し、被害を回避し少なくすることよりも、事故の被害の公開を恐れ、隠蔽しようとする態度である。これは政府や東京電力の責任をあいまいにし、彼らの賠償における立場を有利にし、被害者を切り捨てるものである。
 これは人格権を侵害し、被害者を見捨てるものであるが、同時に物理学会にとっても深刻な事態である。このように、自由闊達な議論が抑圧され、萎縮したような雰囲気の中では、これからの困難な社会的責任を伴う時代をリードする研究者は育たないということである。
 後の資料に示すように、会誌編集委員長はじめ編集委員は話題の枠を狭め、オープンな議論を恐れ、萎縮している。会員諸氏に積極的に訴え、考える機会を与え、活発に討論しようという気迫が全くない。学者に「風評被害」などとまるで過保護な子どもの教育である。このような精神で教育された若者はいわゆる官僚主義的官僚にはふさわしいかもしれないが、我が国や世界の未来を担う科学者や教育者、政治家に育つとは思われない。このことと原発事故が我が国で発生したこととは偶然でないかもしれない。自分で判断し、積極的に行動できる人が少なくなっており、我が国の科学研究や政治に責任を持つ人が少なくなっているからである。高度成長の夢に酔っているうちに、我々は自分で考える判断力を失ったのである。福島原発事故を見て何の教訓も導き出せないとすれば、切り捨てられる事故被害者を見て責任を感じないとすれば、人間として正常な感受性をなくしてしまったのである。残念なことであるが、同時に我が国の未来にとって恐ろしいことである。
 おわりに当たり物理学会が少なくとも基本的人権や民主主義を尊重し、誠実に実践する人たちによって運営されることを期待する。そうでなければ、物理学者は社会から尊敬されず、社会から遊離し、若い研究者が育たず、学問的にも後退し続けるのではないかと危惧する。
 広河隆一氏によればチェルノブイリ事故の時、「ICRPやIAEAと結びついた医学会は、原発のすぐ横のプリピャチ市からの住民の避難に反対した。…しかし、彼らは、チェルノブイリでは思う通りには行かなかった。市民、政府、軍隊、共産党支部、物理学会などの抵抗にあったからである。」(Days Japan2015年7月号27ページ)物理学会は住民の避難に反対するICRPに反対し、住民の避難に協力しているのである。

6節 おわりに
 以上に述べたように、核の平和利用を含め「核は人類とは共存できない」ものである。核は人類のみならず、地球上のあらゆる生物にとって脅威である。私たちは過去、現在、未来にわたって、人類すべての人に等しく与えられた健康で幸せに生きる権利をすべてに優先して護らなければならない。一切の戦争はこれに反することである。核の平和利用も被曝の被害を避けることができない以上、健康と人命の犠牲なしには不可能である。
 これまで物理学者をはじめ、科学者はこの人類の平等の権利、人格権をあいまいにしてきた。例えば、政府は原発の事故を理由に、被曝の基準を高め、一般人に通常の年間被曝限度1ミリシーベルトより高い20ミリシーベルトまでの被曝を強制して、その健康や生命を犠牲にしてきた。労働者には緊急時被ばく限度を250ミリシーベルトに引き上げようとしている。
 現在さらに、政府は年間被ばく限度20ミリシーベルトの地域に対して、住民の帰還を強制する政策を強化している。「帰還困難区域」を除く「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」の避難指示を解除し、5.5万人にも上る避難者を帰還させようとしている。同時に並行して汚染地からの避難者への援助を期限を定めて廃止し、賠償の打ち切りで脅迫し、汚染地への帰還を強制している。例えば、福島県は県外に避難した県民全てに、災害救助法を適用し、応急仮設住宅を無償で提供してきた。しかし、災害救助法による住宅提供は2年という制限があるため、その後毎年更新手続きが必要であり、避難者は将来が不安でその改善を強く求めていたものである。2015年の今年、その要望を署名を持って各地から要請した直後の6月15日、福島県は国の指示のもとに、逆に応急仮設住宅の供与を2017年3月で打ち切ると発表したのである。そして支援が具体化しているのは福島への帰還の片道の交通費だけという。苦しい生活の中から要請した避難者に対して何と冷たい仕打ちであろうか。
 これは「子ども・被災者支援法」に違反し、人権に対する重大な侵害である。原発を推し進めてきた加害者である政府や東京電力が、本来被害者の救済と賠償を行うべき義務が自らにあるのに、避難区域を勝手に縮小し、避難者の住宅援助を打ち切り、避難者を切り捨てようとしている。「自主避難」というがいずれも年間被曝線量1ミリシーベルト以上の汚染地であり、チェルノブイリ法では避難の権利ゾーンである。それ故、住民が様々な困難の中で子供たちのために避難するのは人権の上で当然のことであり、親の義務である。チェルノブイリ法では年間被ばく線量5ミリシーベルト以上は政府の義務で避難させなければならない地域である。正しくは内部被曝2ミリシーベルトを加えているので外部線量では3ミリシーベルトである。我が国ではこのような汚染地への帰還を強制するという非人道的なことが公然と行われているのである。それを知りながら、物理学者は黙認している。中には「目に見える被害はない」と政府の帰還政策に協力している学者もいる。
 我々物理学者は福島原発事故によって、福島、関東、東北、日本中、世界中に被曝を強制してきた。未来の子供を含めて我々はこのような被曝被害の間接的、直接的加害者である。極端に見えるかもしれないが、被曝によって死産となった子供たちには本来、無限の輝かしい未来があったはずである。このような犠牲者をなくしていくことこそ人類の進歩ではないのか。逆にこのような犠牲のもとに我々は何を得ようとしてきたのか。福島原発事故は「現在が科学のあり方を根本から反省するべき時代である」ことを示していないだろうか。

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。