危険と恐怖 その1 「利益」と「意志」




少し前に「安全と安心」という言葉がはやったことがあります。 

「安全」というのは数値で表されるものですが、「安心」は人の心が安心することですから数値だけでは示すことができません。 

これと同じように「危険」というのは数値で終わらすことができますが、「怖れ」は人の心の問題なので数値で表すことはできません。 

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今から20年程前のことですが、わたくしは、社会にどの程度の「危険」があるかということに興味を持ち、イギリスの論文をよく読んでいました。 

今ではもうすでにその頃の論文は手元にないのですが、その中にとても面白いものがありました。 

同じ危険でも人間が恐れるかを恐れないかは、二つの要因で決まるというのです。 

1. 得をすると怖くないが、損をすると怖い、 

2. 自分の意志でやることは怖くないが、他人がやるものは怖い.

何でも自分中心にものを考える人間の特性をよく表しています。 

人間は危険なことでも自分の得になる時にはあまり恐れないのですが、自分の得にならないと、とても恐ろしく感じるというのが第1番目の整理です。 

これを学問的には、 Risk/Benefit(リスク・ベネフィット)の関係と言います. 怖さは「儲かる」程度により、まったく儲からない場合と、かなり儲かる場合では1000倍ぐらい「怖さ」を感じるのが違うようです.

Risk/Benefit関係を具体的に説明すると次のようになります。 

・・・ある電機会社が電気釜を販売したところ、時々爆発して1年間に3人死んだ。その電気釜は社会から強く批判されて間もなく発売禁止になった・・・ 

誰もが当然と思う結果です。一方、 

・・・複数の自動車会社が自動車を販売したところ、時々事故を起こして1年間に5000人が死んだ。しかし、社会の批判はあまりなく、今でも売られている・・・ 

今では電気釜は普通のものになっていますが、最初に電気釜が作られてそれが時々爆発して死者が出るということになると、そんな電気釜を使わなくても、ガスでお米を炊けば良いということになるでしょう。 

つまり、電気釜に代わるものがありますし、ガスでお米を炊いてもそれほど不便をしないからです。たった1年に3人死亡するということでも電気釜を販売することはできなくなります。 

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でもこのことは、自動車でも同じで、交通事故で1年に5000人も死ぬのですから、自動車を止めて徒歩と電車に切り換えればいいのですが、実際にはそうなりません。 

それは、自動車が余りにも便利なので、1年に5000人ぐらいの死者はそれほど恐ろしくは感じないからです。 

「時々爆発して1年に3人死ぬ」という電気釜をつけておくと、そわそわしてとても台所にいる気はしないのですが、「1年に5000人もの死者を出す」自動車に乗ってもそれほど危険を感じないというのは人間の心理がもたらすもの(Risk/Benefit)と考えられています。 

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2番目(自分がやるか、他人か)もなかなか面白い整理です。 

その論文では、自分がやるとあまり危険を感じない例として「ハンググライダー」をあげていました。 

現在の事故率は知りませんが、当時のイギリスの論文では、ハンググライダーは人間が普通に行う行為の内、最も危険なものとなっていました。 

でも、なぜ人はハンググライダーをやるかというと、自分が楽しむために出かけていってハンググライダーを楽しむので、それがすごく危険でも、危険と感じないと書いてありました。 

さらにオートバイの運転をする場合と後ろの座席に乗る場合とでは、運転する方が「自分でする」という意識が強いので、危険を感じないが、後の座席に乗る場合には、それが自分の意思であっても「自分がする」という感じが少ないので、怖くなるという例も書いてありました。 

この場合も「自分の意志でやる」場合と「まったく意志は入らない」ものを比べると1000倍程度、恐怖心を感じる程度が違っていました。 

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当時わたくしは、交通事故で1年に5000人も死ぬのに、社会的な問題としてはあまり強く非難されないのに、原子力では、ほとんど誰も死んでいないのにどうして「原発反対」があるのだろうかという疑問がありました。 

この論文を読んでわたくしは、自分で運転して(意志)、とても便利な自動車(得)では1年に5000人ぐらい死んでもあまり恐怖に感じないけれども、どこかに原子力発電所ができて(無意志)、その電気を使っていても、それが原子力かどうか判らない(得を感じない)ので、恐怖心が増すと理解しました。 

この理解は少し間違っていたように思いますが、当時はそれで納得しました。 

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今回の福島原発の事件でも原子力の仕事をしている人は、自分の意思で原子力をやっていますし(意志)、原子力で日本の電力の30%ぐらいを供給している(得)も良く知っているので、一般の人が感じる恐怖心を、本人は実感してないのかもしれません。 

それに加えて、政府の人は福島で現実に被ばくしているわけでもなく、自分の子供が危機に瀕しているわけでもないので、「自分のこと」と感じられず、さらに危険とは思っていない可能性もあります。 

コミュニケーションというのは、「意志」も「得」も含めて「相手の気持ちになる、自分のこととして考える」というのがポイントですが、「恐怖心」のように心の問題が入る時には、このことはさらに重要なのでしょう.

(平成23426日 午前10時 執筆) 









































武田邦彦