ピーナッツ珈琲






目の前の女の黒髪が、
艶やかに光るのを見た。


前の座席の背もたれから、
5cm程飛び出した口頭部。


毛量は少なく、歪みのないストレート。
細めだが、1本1本の髪が日の光を思い切り溜めこんだように艶めいている。

立ち上がれば、美しい天使の輪を見ることができるだろう。



クリスマスイブ。
一人で映画を見に来たというのに、
これでは、集中できそうにない。



私も、歳を取った。

製作費数十億の大作を目の前にして、
私は、自分より一回りも若そうな女の子の髪に気が散っているのだから。


そこまで考えて、
少し苦笑した。

ああ。


気が散っている本当の理由は、
これじゃ、ないな。




--




音を聞いたわけではない。
だけど、確実に私と彼の関係は崩れてしまった。


小さなヒズミがどんどん重なって、
取り返しのつかない状態になってしまっていたのだろう。

完璧に積み上げてきたと思ってきた二人の日々は、

実は下手くそなジェンガで、
もはや、どの積み木を抜いても崩れる状態だった。





最後の積み木を抜いたのは、
私だったか、彼だったか。



ある日、彼が私の家に来ていて、
それで、珈琲を飲んだ。

私も、彼も飲んだ。


別れる原因は、これだけだ。
たったこれだけの原因で、私と彼のジェンガは崩れてしまった。









その日は、職場の子が新しいマフラーをしていて、
その深い緑色がモミの木みたいだな、みたいな事を思ったのを覚えている。

意外とクリスマスを意識している自分に気づいて、
少し、笑った。


その日はその程度には、寒かった。






ここのところ、

彼は何をするわけでもなく、
私の家に来て、ご飯を食べた。

私が作ることもあれば、
彼が作ることもあった。

私がご飯を作った日は、彼が後片づけをして、
彼がご飯を作った日も、彼が後片づけをした。

食後に、珈琲を飲んだ。


彼は、
スティックタイプのインスタント珈琲を、
翡翠色のマグカップに入れた。

お湯を注いで、ほんの少し、かき混ぜる。

カップの中に小さな渦ができ、インスタント珈琲はサッと溶けた。




私は、
それとは別に、自分で珈琲を淹れた。

何も言わなければ、彼が同じように珈琲を淹れてくれたのだろうけど、

私は、自分の手で、
少し香りの飛んだ豆と、
紙だけど、フィルターを使って珈琲を淹れた。

ブラック。

特にこだわりがあるわけではないけれど、
少し手をかけたい気分だった。











そして、私は、その珈琲に、
ピーナッツを一粒落とした。





バターピーナッツ。



漆黒の液体に吸い込まれる粒。
浮かび上がっては来ない。

波紋が消える。



沈んだ薄橙を探すように、
ティースプーンを差し込み、くるくると回す。

確かに、ある。



それを食べてしまわないように、コーヒーを啜る。

塩気は感じない。
ピーナッツ一粒で変わる味を感じ取れる程、
私の舌は上等ではない。



もう一度、スプーンでかき混ぜる。

ナッツを見つけて、少し安心する。

そして、
いつまでも混じり合わないそれを眺める。

私は、ただ、それを眺める。

ずっと。

ただ。


ずっと。











「そうやって、人の目を引くような事をするのが個性だと思っているなら、それは違うと思うよ。」

彼が口を開いた。

私の奇行が気になったのだろう。
冷たい口調だと思った。

溜まりかねて、我慢できない、
という気持ちが透けて見えた気がした。


私の胸に黒いシミが出来るのを感じた。



「ほっといてよ。」
低い声が出た。

思ったより、ずっと。


その低い声が、周囲の空気を澱ませて、
息苦しくなった。






「珈琲、淹れ直すよ。」

「やめて。」

少ない会話が、事態の悪さを表していた。
少し、意地になっている自分に気づいた。
そして、彼も意地になっていると思った。

何で、こんな事で。



決壊のきっかけは、他人から見れば、
とても些細な出来事だという話は聞く。

ただ、それは少し正確ではなくて、
当人にとっても些細な場合もある。

ようは、
タイミングと、それまでの関係だ。


彼は、
私の行動の端々に、彼を含む他人の気を引きたいという気持ちがあると感じているようだった。

私は、それを見て見ぬフリをしてきた。
強く否定するわけでもなく、見て見ぬフリをした。
理解される部分ではないと思っていたので、それが最善だと思った。

正確には、理解されない事を目の当たりにするのが怖くて、見て見ぬフリをした。




ただ、その日の私は、
彼に甘えたかったのかもしれない。
もしくは、受け入れてもらいたかったか。



一人の時にしかやらない、
珈琲にピーナッツ。

それを、彼に見せた。

結果的に、
それは間違いだったのかもしれない。
けれど、いずれはバレる話だ。

いつか来る日が、
その日来ただけだ。









「別れる。」
こぼれた言葉は、私の口から出ていた。


彼は、怒るでもなく、哀れむでもなく、
真っ直ぐ私を見た。

その瞳に、
彼が、私を理解しようとしているのを感じて、
それが少し面倒臭いと思った。
嫌だ、と思った。無理に理解してくれるな、と。

そして、少し自分が嫌いになった。



私が押し黙ると、
彼は、それ以上何かを言うわけでもなく、

「また来るね。」
と言って帰った。

彼がいなくなった途端、冷静さを取り戻した私は、
寒かっただろうな、と思った。
彼には深緑のマフラーがないから。


--



「幼い頃は、
母親の愛情を独り占め出来ていたけれど、

妹が生まれ、
その愛情のベクトルが妹の方へ向いた時、
何とかして気を引きたかったのだと思う。

でも、2人に向けるべき愛情を独り占め出来るわけもなく、
苦しみ、でも、それを真っ直ぐにさらけ出す事もできず、

そこに生まれた歪みのようなものが、
珈琲にピーナッツを入れさせていると思う。」




彼の、その、酷くズレた弁証を聞きながら、
私は自分の頬が熱を帯びるのを感じた。

3日間彼が考えた結論だという。


彼の言うことは、間違っている。
たとえ正しいとしても私は認めない。

無意識的に幼少の経験が珈琲にピーナッツを入れさせているとしても、
私だけは、それを認めてやらない。

尤もらしい合理的理由を、
『当てはまるから』という理由で『当てはめてはやらない』。





私は、逃げ出した。

クリスマスが怖かった。
何かしらのイベントを迫られるクリスマスが怖かった。

彼から連絡が来たら、私はどうすればいい。
何が正解なのか、本当は分かっていて、
でも、それが出来ない自分にイラついた。
この世から飛び出したい気持ちになった。


それで、映画館を選んだ。

できるだけ、非現実的なアクション映画を選んだ。


でも駄目だった。

目の前の席に黒髪の女がいた。

漆黒の髪だった。



珈琲に、
ピーナッツを入れては、駄目なのか。

誰も入れないから、入れては駄目なのか。

味が変わらなければ、入れては駄目なのか。



飲むのに、邪魔になるから、捨てるべき、なのか。




理由がない、ものは、それだけで、間違い、なのか。






溶け込め、ない、ものは、排除、され、る、のか。












映画の主人公が、
頭から血を流しながら、
少し崩れた顔立ちのヒロインを救った。

怪我をするなら、
膝が先だ、と思った。







彼は、今、何をしているのだろうか。

映画が終わり、スマホに電源を入れると、
着信は入っているだろうか。

私は、入っていて欲しいのか。
入っていて、欲しくないのか。










--

映画が終わった。




電源を入れた。
LINEの通知が来た。














「クリスマスイブだけど、映画でも行こうか。
とびきり、リアリティのないアクション映画を見よう。」





不思議と、笑顔がこぼれた。


この面倒臭い女を、
彼は、理解できるのだろうか。

彼なら。



(おわり)

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