私は、科学的に検証できていない不思議な現象や不思議な力、霊の存在を、否定しているわけではない。

逆に、そういった存在があって欲しい・・・とさえ思っている。

また、そういった力を持っている人が存在するということを信じているし、過去、実際に会った事がある。自分はそうした力は著しく乏しく、霊能力はないと思っているが、そうした不思議な力を持ちうる潜在能力は否定しない。

というより、あって欲しい・・・とさえ思っている。

以前、どなたかのブログで、「子どもの頃、オカルト話に触れたことのある人は、大人になってからスピリチュアルに騙されにくくなる」と書いてあるのを読み、なるほど一理あるなと感じた。
子どもの頃に読んだ、「ホープ・ダイヤを手にした人はみな謎の死を遂げる」「マリー・セレスト号の乗組員達はどこに消えたのか」「かつてアトランティス大陸だけでなくムー大陸も存在した」「バミューダ・トライアングルは四次元への入り口」・・・等々の嘘っぽい話や嘘話。考えただけでワクワクした。そして信じていた。
が、いつしか、「サンタクロースは存在しないということが自然に分かる」ように、それらの話はファンタジーなのだということを理解していった。
それでも今でも、サンタクロースの存在に胸躍らせるように、それらの話が本当であって欲しいとどこかで願っている。

それらはあくまでもおとぎ話であり、おとぎ話は現実に起きないけれど、心のどこかにあってもいいじゃないか。
正常な大人は、「おとぎ話」だと分かっている。
ところが、大人になってからおとぎ話に出逢い、何らかの影響を受けてしまった人は、おとぎ話と現実との区別がつかなくなってしまう。
「免疫」がないまま、正しいガイドとなるべき大人に出会うことなく、大人になってしまうからである。


今、堤幸彦監督作品の「SPEC」の続編が、放送・上映されようとしている。
私がとても楽しみにしている大好きな作品だが、残念ながら映画館には行かれない(というより何故か堤作品は映画にすると面白さがテレビ版の10分の1になってしまう)。
10年以上前の作品「ケイゾク」の続編という位置づけだが、むしろ、同じく堤作品の「トリック」と「ケイゾク」を足して2で割ったような作品だと感じる。
「ケイゾク」はそれまで刑事トリックもので進んでいたのが、ラスト付近で急にオカルティックになってしまった。「トリック」は全編、霊能者ものだった。「SPEC」は一部の人間が特殊能力を持つという設定で、むしろ「トリック」に近い。

「トリック」の設定が秀逸なのは、主人公の仲間由紀恵が日々トリックで人を騙すマジシャンという職業で、もう一人の主人公・阿部寛が科学者という、超現実主義コンビである一方で、実は仲間由紀恵は本物の霊能者なのではないか、という矛盾を抱えさせている点だと思う。
そして、出てくる自称霊能者達は、基本的にはインチキで大がかりな詐欺をやらかしているのだが、一部、本物の不思議な力を持っている(いた)という者もいる。

このドラマには非常に学ぶべき点が多く、自称霊能者達というのはほぼ100%、欲がからんでしまう。
霊能力を活かして、その力にすがる人々(信者)が集まり、組織化され、保身のために邪魔になる者を攻撃する。結局は自称霊能者達は、「金」とか「霊能力の誇示」といった欲望の中心に据えられ、信者達は救いを求めるという「自己救済欲」に囚われて自分を見失っている。

この図は、ちょっと名の知れたスピ集団と同じかもしれない。
但し、スピリチュアルは宗教と異なり、自分中心主義なので、ヒーラーも自分のことしか考えていない。自分のことしか考えてない人しか集まらない集団というのは、それほど、大きくはならない筈である。
スピリチュアルに一定数マーケットがあっても、なかなか、大きなまとまった組織にならないのはそれが原因だと思う。

仲間由紀恵や阿部ちゃんが小気味よく偽霊能者達を暴いて行くシーンは爽快だが、実は仲間由紀恵自身が霊能者かもしれないというテーマを常に内包し、「この世の中には、本物の霊能力者がいるかもしれない・・・」と常に視聴者に問いかける。
このスタンスが、私には実にピッタリくる。「お前のその力は偽物だけど、世の中には、本物がいるかもいれない」そういう心境だ。
「SPEC」も同じだ。

「常識では計り知れない特殊なスペックを持った人間が、この世界にはいる」

「私の脳でずっと眠っている残り90%のうちのどっかが、私の思いに応じて目覚めてくれるはず。それが、私達の未来を切り開いてくれる」


・・・なんとファンタジックなセリフだろうか。私も、試験で追い込まれた時、自分の脳でずっと眠っている残り90%の記憶能力だか潜在能力だかが目覚めろ~!!!と真剣に願いますもん(実話)。
「左手、動けー!」じゃなく「右手、動けー!」と試験中に叫びたくなる(動きませんでした 
涙)。



ところで、スピリチュアリストは占いジプシーと重なる部分が多いのだが、占い師(前世占い含む)やらヒーラーやら何とかカウンセラーやらといった霊能力者の門戸を叩いて、「自分について」根源的な問を求め続ける人というのは変わらない。

一人のスピ職人(占い師含む)で満足することはなく、大抵、「この人は本物」と感じられるスピ職人に出逢うまで、ジプシーを続ける。
というより、「本物」と感じて傾倒したとしても、なぜか、心のどこかでまだ「他の本物」を探したり、実際にジプシーをやめないのが大半なのだが。


そんな「本物の霊能力者を探す人生」を送っているスピリチュアリストは、「トリック」で偽霊能者の取り巻きとして騙されている信者達とそう変わらないように見える。そして、そのことに、気付かない。

あるスピリチュアリストが、某有名占い師の事を信じる芸能人のことを「バカだ」と言っているのを聞いて、驚くと共に苦笑したことを思い出す。
その人は、同じ口で、その直前「自分が出逢った本物のヒーラー、占い師」について熱く語っていたのだ。私からみれば、その「本物のヒーラー」も「某有名占い師」も同じなのに。

本物だろうがそうでなかろうが、どっちでもいい。私は、そういう「本物の霊能力者を探すような生き方」に興味がないだけだ。自分の心が弱っている時、どうしても答が見つからない時、「本物」にすがりたくなる時はある。けれど、年がら年中心の中で、探し続ける人生なんて・・・

そのような人生も、その人の生き方だから別にいいだろうとは思う。
ただ、騙されっぱなしの人生になるという事だけは間違いない。だって、世の中の99%は偽物で、本物は1%も存在しないのだから。
その1%に出逢う確率など殆どゼロに近いのだから、その人の人生99%は騙されてるということになる。

人の欲につけ込み、欲の皮が突っ張った者同士持ちつ持たれつ依存しあっている間は良いが、「偽物」が行き着くのは必ず「金」と「組織」だ。時にはそれが、取り返しのつかない悲劇を生むことがある。そのことは「トリック」で学んだ。

それでも本人は気付かない。
それもまた「お幸せ」なのかもしれない。


そもそも、「本物」であれば、絶対に「営業」はしないのだ。「本物」は、HPを作って宣伝したり、ブログやSNSやツイッターなどで宣伝活動に勤しまない。「お客様からの絶賛の声」を載せたり、上級ガイドと称するスピ職人の親玉からの「お墨付き」を載せることもない。
「本物」であれば逆に、お客さんに来てもらうことを望まない。

だから「本物」は、口コミでしか出会えず、お金を介することもない。

つまり、まず、出会えない。

出会えない人を探し求める人生・・・
そうであったとしても、本人が満たされているならばそれもまた、「お幸せ」なのかもしれない。