あるがままに・・・

角松敏生を機軸としたモノローグ


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2017年3月。現時点でまさか「君の名は。」がロングラン上映中とは、1ミリも予想していなかった。公開から7ヶ月も経つんですぞ。
しかも、2017年3月。新海誠の過去作品が、NHKBS&地上波初登場等続々放映とは、1ミクロンも予期しえなかったなぁ。

 

 

Twitterなんかでは、「君の名は。」感覚で「秒速5センチメートル」を見るな!死ぬぞ!とか、「君の名は。」→「言の葉の庭」→「秒速5センチメートル」の順で見ると救われずにどんどん鬱になる、といった警告がトレンド入りしてたらしい。「君の名は。」信者よ。これが新海誠だ・・・の後にこれが貼ってあったりしてね。

 

 

人の数だけ解釈は存在するのだろうが、少なくとも新海誠自身は、「秒速5センチメートル」をバッドエンドの物語として捉えてはいない。しかし、多くの新海ファンが解釈するような、最後の貴樹の「笑み」と青空を見上げて立ち去るあのシーンは、ようやく貴樹が明里を「吹っ切って」「新しい一歩を踏み出したのだ」というエンドではないと私は思うのだ。以降、あくまでも私の勝手な解釈。

 

結論から言うと、残念ながら貴樹の心には一生、明里が存在し続ける。それまでと変わらない絶対的な存在価値を以て、同じ位置に微動だにせず居続ける。・・・と、私は解釈する。

それは決してバッドエンドではないはずだ。
何故かと言えば、貴樹は明里を探し求めていただけであり、それ以外に何も求めてはいなかったからだ。だから、たとえ「あの」桜の花びらが“秒速5センチメートルで”舞い散る想い出の踏切ですれ違った時に、明里に存在を気付いてもらえなかったとしても、貴樹は何も失っていないことになる。

それは実は明里も同じで、殆ど記憶が薄れているけれども、明里の中に占める貴樹の位置も実は全く変わっていないのだが。


・・・ならば、貴樹ら新海ワールドの住人は、一体何を求めていたのか?・・・という問いかけで終わったのが前回まで。「君の名は。」公開翌日以来、断続的に「君の名は。」語りを勝手に延々繰り返し8月29日9月8日9月23日11月11日、そして2月14日。語りすぎだ)、こちらは辟易されながらも7ヶ月ロングラン中。そろそろ卒業しないと、一生語り続けかねない。

 

新海ワールドの住人が、何を求めているか。そのヒントは、秒速5センチメートルよりも史上最強に超絶鬱になる「ほしのこえ」から存在していると思う。

 

 

ノボルと美加子の時間的場所的距離は決定的なものになっていくのに、美加子は15歳の姿のまま、心のまま。一方23歳になったノボルは、決して叶わない約束を待つ事に耐えきれず「もっとずっと心を堅く冷たく強くすること。絶対に開かないって分かってる扉を、いつまでも叩いたりしないこと」を決意して、「美加子のいない」自分の世界を構築していく。

 

そこで届く美加子からの、8年前に放たれたメール。


確かにノボルは、あの日美加子のいない世界に身を置く事を決意して、ガールフレンドを作り、高校を卒業し、大学を卒業し、就職もして、美加子を心から排除する事に成功したかに見える(もっとも、大学は国連宇宙軍大学だし就職先は国連軍だし、美加子をフォローし続けているのがバレバレ)。だけどノボルの心もまた、少しも変わっていなかったのだ・・・ということを思い知らされるシーンである。

それなのに、二人が、時空を飛び越えて最後にどうしても伝えたかった想いは、遂に届けられなかった「私は今でもノボルくんのこと、すごくすごく好きだよ」ではないのだ。それは
「わたしはここにいるよ」。

 

これと同じことが「秒速5センチメートル」についても言える。前々回書いたが、貴樹も明里も「好きです」という言葉は一度も相手に伝えていない。だけど、明里がどうしても貴樹に伝えたい言葉、貴樹が岩舟駅で明里と別れてからずっと、心の支柱とした明里の言葉は、「好きです」という言葉などではない。それは
「貴樹くん、あなたはきっと、大丈夫だよ」。

 

「言の葉の庭」に至っては、あのクライマックスで、泣きじゃくりながらタカオの胸に飛び込んでユキノが放った言葉は、「好き」という言葉ではない。

「あの場所でわたし、あなたに救われてたの」なのだ。

 

もちろん、「君の名は。」も同じだ。瀧がどうしても三葉に伝えたかった言葉は、掌に残した「好きだ」という言葉ではない。「お前が世界のどこにいても、俺が、必ずもう一度逢いに行く」である。

 

 

それにしても、ノボルと美加子といい、貴樹と明里といい、ユキノとタカオといい、そして瀧と三葉といい、時間も距離も遠く離れ続けているのに、何年も忘れるどころかそのままの熱量で一途に“当たり前のように”相手を想い続けていられることを奇妙に感じないだろうか。2人が同じ時を過ごしたのは僅かな期間。それも、彼らは思春期を経て青春真っ最中だ。相手の事なんかとっとと忘れて、新たな恋に走るのが普通。現に、明里は貴樹ではない婚約者の腕にぶら下がって笑顔を振りまいているではないか。

ノボルも貴樹にも好きになってくれた女の子がいたり、彼女の1人や2人がいたりした。だけど心の最深中央部に、初恋の美加子と明里が居座っていて、決してその場所を明け渡さないのだ。貴樹の心の「そこ」にいるのは自分ではないと自覚したカナエもまた、大人になってもずっと貴樹を想い続けていた。明里だって、明確に自覚していないだろうけれど、ホントは心の奥に13歳の貴樹を永遠に宿しているはずなのだ。瀧と三葉はいうまでもあるまい。

 

「君の名は。」の場合、過去作品と比べて「何故瀧にとって、三葉なのか、他の新海作品と比べてその必然性(説得性)に乏しい」という批評があった。言わんとするところは分かる。

だが、一度会ってしまったら、もう次は必然なのだ。そして最初に出逢ってしまったことの理由は、存在しない。

故に、必然性を論じる事に何の意味もないと思う。

 

その意味はこういうことだ。

どうしようもなく惹かれる人がいたとして、何故その人でなければならないのか、その理由が究極的にはどこにも見当たらないことに気付いたことはないだろうか。

たとえば「好みのタイプそのものだった」としても、なぜそれが自分のタイプなのかは分からない。いつから誰から始まったのか特定は出来ても、なぜその時その人から始まったのか、絶対に論理的な説明がつかない筈だ。

古来万葉の時代に我々の先輩は、その理由を前世からの縁(えにし)に求め、前世何らかの理由で結ばれなかった相手と来世に再会することを約束したこと、これが「契り」である・・・というロマンチックな説明をしている。「君の名は。」も、この説に影響を受けていることは想像に難くない。

貴樹と明里にとって何故お互いでなければならなかったのか、その理由だって大して語られているわけではない。瀧と三葉も、なぜお互いに入れ替わりが生じなければならなかったのか、それは偶然選ばれた二人であったからかもしれないし、運命と呼ぶのかもしれないし、前世かもしれないし、いずれにしてもその理由はどうでもいい事だ。

 

更に、この先が重要だと思うのだが、心身共に大人ではない未熟な子どもの間に相手を「見つけ出し」、僅かな期間であったとしても同じ時を過ごし、再び相手を見失うとする。この自我形成段階で相手に自分の一部を預けると同時に、相手の存在も自我に取り込んでいる。したがって見失った後もずっと、意識又は無意識的に相手と同じスピードで、内なる相手と共に成長し続けていることになる。

明里がどうしても貴樹に伝えたかった言葉「あなたはきっと、大丈夫」は、明里自身が言って欲しい言葉でもある。大人になるという未知の領域への不安を自分と同じように抱えていることを明里は分かっている。存在の承認、それは自我を得た後の「大人」になる上で、必要不可欠の要素だ。明里がどうしても伝えたかったのは、自分が好きだという言葉ではない。明里が出さなかった手紙はこう結ばれている。「貴樹くん、あなたはきっと、大丈夫。貴樹くんがこの先どんなに遠くに行ってしまっても、私はずっと絶対に好きです。」それは断じて愛の告白などではない。無条件の存在の承認だ。

そしてノボルと美加子が、時空を超えて互いに伝えたかった言葉、「ここにいるよ」は、紛れもなく存在の承認を求める言葉である。

大丈夫、きっとまた会えるよ」・・・それはいつなのか、来世なのか。自分を見失わない限り、いつかまた会える。探しているのは相手なのか、自分の「片割れ」なのか。

 

 

 

新海作品は全て男女二人の「ラブストーリー」ということになっている。「珠玉のラブストーリー」、なんと薄い言葉だろうか。確かに「恋愛」のストーリーとして解釈すると、新海作品は極めて退屈なものになってしまう。「秒速5センチメートル」を「サラリーマンの男が昔の女を思いながら、メソメソした毎日を送る話です。それも昔の女っていうのが小学校時代から好きだった女の子ですよ。気持ち悪い。」と酷評した記事がネットにあったが、正鵠である。あの映画の第三話を3行で語るとすればそんなものだろう。新海作品をラブストーリーとしか捉えられない人にとってはそれ以上の解釈は生まれまい。

 

しかしたとえば、「恋」であれば相手の心を知りたくなるものだが、新海作品の男女は誰も、相手の心がどこにあるのか、知りたくないように見えるし、知ろうとすらしない。いや、既に「識っている」から敢えて知る必要もないのだ、とでも言いたげだ。故に相手の心を「探る」とか「疑う」とか「不安になる」こともない。ついでに、「恋」であれば目に触れる森羅万象が急にキラキラと輝き出して見えるといった「厨二病」に罹患するものだが、そっちの作用もゼロ。なんだかみんな、寂しくなったり涙をこぼしたり切なげな表情で空を見上げたり、「今まで生きてきた中で、今が一番幸せかもしれない」などと遠い目をしてポエミーな言葉をハモってみたり(充分厨二病か)。何を目指してるのかさっぱり分からない。まるで相手を知りたい以前に、見ようともしないかのようだ。

 

偶然だか運命だか前世だか、はたまた「縁」と呼ぶのか分からないが、とにかくその相手を見つけてしまった。自分が、ようやくその相手を探し出したんだということに気付くのは、大概失ってからである。いや、世の中の殆どの人が、見つけたことも失ったことも気付くことなく、あるいは気付いたつもりで生きていて、一生気付かぬまま生涯を終えるのだろうと思う。

見つけて、自分の一部を預けて、見失う。これだけでも充分、奇跡だ。これでもう一度会えたりしたら、世界が一個吹っ飛ぶ位の奇跡じゃないか。もう一度会えるかどうかは別として、誰しもそうした宿命の人が必ずひとり、いる。「君の名は。」で新海誠が伝えたかったのは、そういうことである筈だ。

 

 

美加子は言った、「わたしはただノボルくんに会いたいだけなのに」。「お前が世界のどこにいても、必ずもう一度会いに行く」、これは瀧がどうしても伝えたかったことだ。そう、新海ワールドの住人が望むことはただ1つ、宿命の相手に「もう一度会いたい」。会ってどうしようというわけでもない。その後のことは何も考えていない。文字通り、ただひたすら会いたいだけなのだ。それ故に心のどこかで常に探している。自分を形作るすべての細胞が、ただひたすらに求めよと命じ続けている。

だから相手の存在を忘れたとしても、自我の一部を預けた相手が「いる」という事実は変わらないし、無意識の自分は決して忘れていない。そんな相手に出逢っている事を認識した瞬間は、絶望的であるとさえ言える。

“わたしが遠野君に望むことは、きっと叶わない。それでも・・・それでもわたしは、遠野くんのことを、きっと明日も明後日もその先も、やっぱりどうしようもなく好きなんだと思う。遠野くんのことだけを想いながら、泣きながらわたしは眠った。”このカナエの涙は、失恋の涙ではなく、むしろその逆である。カナエにとっての「相手」に出逢ってしまったこと。それを心の底から、圧倒的に思い知らされた事の涙である。自分はこの先もきっと、少しも変わらず相手を想い続けるだろうという事実。それはある種の諦めだ。貴樹が踏切で最後に見せた「笑み」は、明里を永遠に心に宿して生きていくのだという厳然たる事実を、ようやく貴樹自身が受け入れたということなんだと、私は思う。

 

 

いつも、誰かを、何かを探している。それが誰か、何者かは本当は細胞が記憶している。思考が認識していないだけだ。それは遠い記憶の海に沈んでいるだけであり、その位置は動くこともなくその存在が消えることもない。美加子や貴樹のように記憶しているか、それとも瀧や三葉のように忘却しているかの違いだけだ。

 

小説版「君の名は。」で明かされた瀧と三葉の心はただ一つ。

あとすこしだけでも、一緒にいたかった。

もうすこしだけでいいから、一緒にいたい。

その想いはすべて、映画においてはRADWIMPS奏でるエンディング「なんでもないや」に託されている。

 

もう一度言う。新海ワールドの住人が望むことは単純かつ明快だ。「もう一度会いたい」「あと少しだけ一緒にいたかった」・・・ただそれだけだ。しかしそれは果たして男女の「恋愛」と言えるのだろうか?

 

 

恋じゃない。愛でもない。恋愛ではない。ましてやもちろん、ただの友情でもない。母性?兄妹?親友?ちょっと近いけど多分違う。自己愛と呼びたければ呼ぶがいい。絆とか運命とか前世とか、そんな薄っぺらなものじゃない。大切な人、必要な人、忘れてはいけない人。自分の一部、魂の片割れ、全てを失うこととひきかえにしても、もう一度会いたい人。あと少しだけ、一緒にいたかった。どれだけ言葉を重ねても、この想いを「言葉」にすることは不可能だ。

 

なぜならば、私のあなたへの想いを変換する言葉は、辞書には載っていないから。

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