ここ日本では84日の公開が予定されているマイケル・ベイ&スティーブン・スピルバーグ監督による超大作映画「トランスフォーマー」。その主題歌として採用されているのがLinkin Parkの“What I’ve done”である。選曲には様々な理由があるのだろうけれど、一般の人がLinkin Parkのサウンドや過去のイメージから連想するのは、非常に近未来的なサウンドスケープを持っているということであり、アナログ臭よりはデジタル臭を感じさせるということであり、デジタル臭に連帯する完璧さを想起させるということであり、それがトランスフォーマーのイメージに合致したからなのだろう。


現在バンドとしてLinkin Park自体がトランスフォーム中であることは以前のブログにも記述したけれど、それは今回の選曲に関係しているわけではないだろう。バンドの歴史を知らずに(もちろん知っている必要はないのだけれど)映画を見に来る人々が、バンドの歴史の変遷中でのトランスフォーム云々ということを知るわけがない訳であるし選曲にそういう要素が入る余地はないからだ。


繰り返すがいまLinkin Parkは元来の姿である“個々のパーソナリティに因数分解可能なピースによる芸術的コラージュ的組み合わせとしてのLinkin Park”から“バンドとしての色をもった有機体としてのLinkin Park”への変貌を遂げている最中であり、それが最新作「Minutes to midnight」(夜明け前の瞬間)であり、夜明け後の光を期待させているのだと書いた。


ではなぜトランスフォーマーの主題歌などというイメージ的には過去のLinkin Park、葬り去ろうとしているLinkin Parkを髣髴とさせるような役回りを引き受けているのか?

葬りたい過去のイメージを喚起させるのならば断ればよいのじゃないか?

ビジネスとしてのお金が目的なのか、アルバムを売るためのプロモーションの一環なのか?

いずれも否である。


やはり鍵になるのは“What I’ve done”の解説文にある“様々なレベルで自由や芸術や死をメタファとして包含するような歌詞”であり、僕たちはここを深く読み込まなければならないのではないか。つまりLinkin Parkがトランスフォームしようとしている方向性というのは(現時点では)メタファであり階層化であって、ダイレクトに表層化してくるものではない。更にいうならば過去の2枚の傑作アルバムで彼らが確立した音楽性は完全に葬り去られるのでは決してなく階層の中の一層として取り込まれているということである。シリアスさもエンターテインメントもラップもロックもメタルもデジタルもアナログもビジネスもプライベートも、すべてをも包含しようということなのである。壮大な方向性である。実現不可能な壮大な夢なのかもしれないけれど、例えば節目となる2000年以降のロックシーンにおいてLinkin Park以外に誰が出来るというのだ。


Linkin Parkの凄さというのは、明確かつ詳細な目標と計画をたてそれを完膚なきまでに実行できること、つまり破天荒かつNo Planなロックミュージシャンではなくビジネスの世界にドロップしたとしてもとてつもない成功を収める新世代のロックミュージシャンであるということだ。過去のロック史の中でも驚くべきトランスフォームをしたバンドは存在する。ただしそれは溢れるほどの才能やフラストレーションがたまったギリギリの社会情勢によって無自覚に行われてきたものだった。


Linkin Parkという巨大な才能が“計画的に”トランスフォームしようとしている階層化のロックを、同じ時代を共に生きて目にすることが出来る幸せをかみ締めながら今日も名曲“What I’ve done”のメロディの中に潜む様々な階層を考えようではないか。

トランスフォーマーが地球の運命を変えるのならば、Linkin Parkはロックの運命を変える究極のバンドと信じたい。


何があろうと断固としてLinkin Park支持である。


公家尊裕 (Takahiro Kouke)