ジェンダーフリー 徒然 | 空気の意見 

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過去の規制緩和による捻れた競争社会に、公正な競争を導入し、不当な競争から労働者を保護しよう! 介護福祉は国営化。国が労働者管理機構をつくり、労使へのアクセスとバックアップ、フィードバックを強化し、労働者達へのセーフティーネット強化の土台をつくろう。

◇政府のジェンダー定義は誤り
◇ミード学説の引用は邪道 「平等理念」の抜本見直し不可避、「上野千鶴子氏は学問的でない」

反フェミニズムサイト

ジェンダー

内閣府男女共同参画局

 
 さっぱりとわからないが、とにかく何かしら考えてみよう「ジェンダーフリー(性差の否定)」って奴。
性差や羞恥心、男と女、こういったモノ、おそらく何千年単位で人間を取り巻いてきた、と思う。
多くの人がもう語りつくしているので(と思われるます)、気ままに書いていきたいと考えてます。

「性自体は驚くほど多様」
X51.org 少年の体で月経がはじまる  ← ちょっとした参考程度に
(他の記事にはショッキングな画像も載っている場合があるので、お気をつけて)

 少数ながら人間の社会には両性具有者という性のありかた、
また肉体の性にかかわらず精神的な性の転換、混乱、肉体に束縛されないまた同姓への愛情、
こういったものもある。

そういえば聖書(新共同訳)
「―神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。
  男と女に創造された。―」(旧2 27より)
「―人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
  そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
  主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
  『ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。
   これをこそ、女と呼ぼう まさに、男から取られたものだから。』
  こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
  人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」(旧3 21より)

別にキリスト教信者ではないんですが、
創世記1が天地創造の由来であり、創世記2が人の由来なんですかね。
しかし、先に人を創造し男女を創造したはずなのに、次にはまた人と男女の創造に触れている。
人を土の塵で形作り、植物は生えさせたとし、動物をまた土で形作りエデンの園に持ってきた。
人を助ける者がいないから、神があばら骨で女を造り上げた。
天地創造から現実の環境、生死や羞恥心、知恵などに説明をつけるために別解釈をしたのが
塵からできた人の話なのかな。で、それから延々と追い立てられ、安住の地をみつけたり、
神との約束をまもったり破ったり、預言者が出現したり、救世主を待望したりと・・・・・・。
こういった物語や箴言が続いていく。
(ちょっと関係ないことですが、聖書の一節が悪魔を呼び出すための儀式に使われたりしたことも)

ジュリア・クリステヴァ  
 父性原理としての「キリスト教、ヨーロッパ文明、記号の体系、資本主義」を批判し、
とりわけ中国への関心が高く、儒教イデオロギーを批判する中国人女性を描いて、
父権的な資本主義批判に重ね合わせようとした、らしいです。
彼女の属した「テル・ケル」という批評グループは毛沢東主義への共感を表明していたとか。

 西洋では共産主義の幻滅、かつての共産主義者のおおくが転向声明を強要されたという、
旧ソ連崩壊後の「鉄のカーテン」の内幕が秘密資料とともに暴露されたとき、
政治犯収容施設などの事実が、非常な衝撃をもって西洋社会を襲ったようです。
けれども教条的な熱はなくならず、逆に福音主義的、非合理性をもった言説が強くなっていく、
という風潮がうまれたようです。
 アメリカは過去「赤狩り」をおこなっています。
マッカーシーの個人的動機による英雄的行動、民衆の不安を煽ったために「赤狩り」。
(もちろん共産圏スパイも実際に入り込んでいたわけですが)
「赤狩り」によって不当な扱いを受けた人もでてしまったぐらい熱を帯びたものでした。
そういった1950年代から1990年代になるとついにソ連崩壊に至り、
共産主義国の内側が世界に知れるにいたり、第二次赤狩りのようなものが世界を襲ったのかも
知れません。
『失敗した神』 The God That Failed
著名な西洋の知識人
「イニャツィオ・シローネ、アンドレ・ジイド、アーサー・ケストラー、スティーヴン・スペンダーなど」が
彼らがモスクワへ、共産主義へと傾斜するにいたったいきさつ、
その後の必然的に生じた共産主義への幻滅、反共産主義への最終的な回帰が語られているそうです。
The Dream That Failed: Reflections on the Soviet Union
「赤狩り」の失敗部分はマッカーシーにある。政治的にみて赤狩りは成功していた。
と、結果を見て言えるかもしれません。
しかし、希望や憧憬、合理性と知識が前時代的な教条的熱狂に打ち砕かれた、
そういった時代の延長に私たちは居るのかもしれません。
アメリカにおいて「ネオコン」とか「福音主義」と批判の声がでるのも、こういった経緯による
福音主義的な行動への反発からなのかもしれません。
米国の性教育事情

日本がこういったながれからの影響をどう受けたかはちょっとよく分かりません。
最近の日本の独自?的な流れにも影響を与えているのかも知れません。
1960年代あたりで止まったままに見えるような状況があるとしたら、
こういったものに目を背けたい衝動からなのかもしれないですね。
けれども、

自分だけの部屋  ヴァージニア・ウルフ
「―女性がペンをとって書こうとすると、男性的価値がすでにいすわってじゃまをする―」

こういった壁に答えないわけにいかない、そう考えてしまう。
さいきん何処かで見た統計では、世界のなかで、日本社会における女性進出が30位台くらい
という結果がでていたようですし、
「何位じゃないと先進国の資格が~」といったことではないですけれどもね。
まぁリベラリズムが一番、自由にやれるようにしたらいいのですが。
働きたくない女性も外で働きたくなければ違った形の活動が ?(おなじみの旦那観察日記!)
とかもあるし、女性に限らず男性にもそれはあるわけですから、
社会や学校、子供たち、知識人は自分たちの思想の道具にしないようにしましょう。
思想実験で被害をこうむるのは誰なのか、よく考えていきましょう。
これだけではなんなので、最後に下のは映画版ですが、原作小説もあります。
未見のかたは休日を利用して、DVDで観賞しませんか?

ハワーズ・エンド   
死の間際、鉛筆を手に取り遺言を書く先妻。
知性とユーモアに溢れ、議論好きな女性(姉)が結婚した途端に旧来の家庭生活の枠に収まる姿。
知性と情熱、博愛主義の女性(妹)が図らずも、予期しなかった愛の形に飛び込んでいく姿。
終盤、強権的な家長として君臨している男性が、腕を顔に押し当て、顔を覆い隠しながら悲しみにくれるとき
「社会的な性」の化粧自体の脆さが表象され、そして「先妻」の予感的な遺言が「社会的な性」や抑圧、
支配力の取り合い、分配、社会的弱者や犠牲者といった存在や議論を超えて、物語を収束させていく。
古い家を去り行く自動車、それにむかい子供たちが手を振った。
紙切れに書かれた遺言、知識を超えて、家族をまもるために飛んで帰ってきたのかもしれない。