クラークとキューブリックが予測した輝ける21世紀。
その初年度も、あいかわらず地面に這いつくばっていた我々現代人である。
IBM製のコンピューターはついぞ人類に話しかけてくることもなく。
日本ではシビアな現実世界の溝を埋めるかのように、
USJと東京ディズニーシーの2大夢の国が埋立地に出現。
奔放な物言いで不人気だった森首相は、2月に起きた「えひめ丸」事件での対応を批判され、退陣。
ド派手な選挙活動と高支持率で我らがライオン丸、変人こと小泉純一郎首相が就任する。
国政は構造改革が進められ、新自由主義者たちにより日本は「小さな政府」に統治される国となっていく。
大アメリカ帝国の跡を、これまで以上についてまわるニッポン。
まるで暴君信長に追従する羽柴秀吉の如く・・・。
国内ではえひめ丸に乗船していた若きシーマンたち以外にも、歌舞伎町のビル火災や
明石歩道橋将棋倒し事故など、痛ましい事件・事故が頻発。
もっとも衝撃的だったのは付属池田小で起こった、無差別児童殺傷事件である。
なぜあのような事件が起きてしまったのか。
なぜ幼い子供たちが命を奪われなくてはならなかったのか。
この事件の報を聞いた人の数だけ、様々な意見、考え方があると思う。
しかし確実に言えることは、自らをめぐる現状に不満を持った者が、
自分とかかわったこともない無関係の人間を傷つけることで、それをひとつの意思表明とする。
そういったひとつの「方法」が確立されてしまったということである。
考えられうる事態のなかでも、最悪である。
しかも時はインターネット時代。
より多くの情報を共有できる現代においては、加害者に対する共感など、
隣人と顔を突き合わせて起こす前時代的な井戸端コミュニケーションのなかでは考えられないような
意見・情報の共有も起きるのである。
その結果、事件の犯人が起こしたようなこういったひとつの「方法」が、
一種のマニュアル化されてしまったのではないかと、そんな印象を今となっては受けるのである。
さて、9月11日。
故筑紫哲也が、「史上はじめて世界中の人たちがあの日あの時間、自分が何をしていたかを思い出すことになるであろう」と評した日がやってくる。
世界中の人が初めてリアルタイムで目撃した、大量無差別殺人行為。
事件の真相は藪の中である。
中学3年生にしてすでに反米左派イデオロギーを持っていた当時の僕はというと、
あの映像と事件の顛末を聞いて得た感想は
「アルマゲドンじゃん!」「アメリカがついにやられた!」「その手があったか!」
である。
後年、忌み嫌う小林よしのりがまったく同じような感想を叫んでいたと聞いて、
彼にシンパシーを覚えたものである。
意識的あるいは無意識的に、世界を統治しようとする大国の帝国主義に対する不満が爆発したこの事件。
とうぜん許されるべき行為ではない。
しかしながら世界情勢や政治のパワーバランスが関わると、ついつい事件を構造化し、
知った顔の上から目線で語り始めてしまうわたしたち。
結局犠牲を被るのは何の罪もない一般市民なわけで・・・。
今でも反省しきりである。
われわれ西側諸国の先進国民が、無差別な他人からの攻撃に怯える「テロの時代」は、
こうして幕を開けてしまったわけである。